Keisuke Hara - [Diary]
2004/02版 その1

[前日へ続く]

2004/02/01 (Sun.) 思考の空間

もう如月。 午前中は執事からの一月分報告メイルを受けて、 MS Money で家計簿付け。 また「萌絵でーす」で、ヒネリがないぞ。 (ひよつとしてスクリプトによる自動化?) 執事は副業のプログラマで一つラインが終了した模様で、 今 9 連休の冬休み中だと言ふ。結構なことだ。 昼食は適当にパスタを作つて済ませ、 午後は、洗濯の後、数学。 夜は本と書類の整理。

今月末に研究室の引越しをしなくてはならないので、 今から少しずつ整理をしてゐる。 基本は「捨てる」ことだが、 さうでないもので自宅に持つて帰れるものを、 日々持ち帰つてゐる。 となると、作業が自宅にまで波及する。 どうして、こんなにスペースが必要なのだらうか、 と溜息をつく。 エルデシュと言ふ有名な数学者がかつてゐて、 鞄一つ以外に何も持たず世界中を移動して過し、 文字通り山のやうな業績を残したのだが、 さう言ふ何も持たない知的作業のあり方は、 格好良いなあと憧れる。 整理の手を休めて、考へることについて考へる。

私は旧世代の人間らしく、 思考自体が物理的実在とセットになつてしまつてゐる。 つまり、何かを考へると言ふことと、 部屋の中を歩く、書棚のどこかに手を延ばす、 本の背のタイトルに目をやる、 ノートに書く、手でめくつて読む、 などと言ふ現実の動作があまりに強く関連づけられてゐて、 切り離すことが難しい。 おそらく、私の思考力が貧弱なために、 その多くを外部に展開せざるを得ないのだ。 作業に必要な空間が、 ほとんど自分の頭の中だけで済む人もゐるだらうし、 必要なデータが電子的なものだけで済む人も今は多いだらう。 いずれ、全ての知的作業が仮想的に済むやうになる可能性はある。 それは技術の進歩と言ふよりも、 人間側の変化によつて成されるだらう。

逆向きの憧れなのか、私は時々、こんな夢を見る。 私は中空の塔の形をした図書館の中にゐる。 エーコの「薔薇の名前」に出てくるやうな、 ピラネージの絵のやうな。 私は部屋から部屋へと空中の階段と回廊を歩きながら、 思考する。 この建物は私の思考が外部に展開されたものなのだ。 もちろん貴方の想像通り、今、 私は書架のボルヘスの本の辺りに手を延ばしつつある。


2004/02/02 (Mon.) フランショーム

昨夜、背筋が寒いし喉が少しおかしいと思つてゐたら、 やはり今日は風邪気味。 何となく先日の試飲会で伝染つたやうに思ふ。 寝てゐる間に病気になつたみたいで、 もともと悪い目覚めはいつにも増して最悪であつた。 昼食は近所のカレー屋で、法蓮草チキンカレー。 午後は膳所にチェロのレッスンに行く。 フランショームのエチュードが難しい。 どことなくショパンぽい、 暗くロマンティックな雰囲気が良い曲なのだが。 夕食はシリアル。

食後は安静に寝床で読書。 風邪をひくとどうして体調が悪くなるのだらう。 ウィルスの方としても被寄生主の体調が良くなつて、 アクティブに活動してもらつた方が、 さらに感染者を拡大させるチャンスが大きくなつて、 有利だと思ふのに。 しかし、地球に寄生感染してゐる人類種も、 あまり良いことをしてゐないやうではありますね。


2004/02/03 (Tues.) 東北東

目が覚めると若干、風邪はよくなつてゐた。 今日は家にゐたい気分だつたが、 金曜から始まる入試採点の前に完治するために、 水木と二日間は余裕を持つて静養したい。 やはり今日は出勤して、色々な用件を片付ける。 出勤した序でに今日も部屋の整理。 今日は CD の半分くらいを持ち帰ることにする。 会議の前や後に憂鬱な気分を癒すために聴く CD 群で、 若干通俗的だが私にとつてのベストの癒し選曲である。 フルニエ演奏のアンコールピース集と無伴奏チェロ組曲、 カザルスのホワイトハウス・コンサート、 ルビンシュタインのノクターン集、 グールドのゴールドベルグ変奏曲(二回目の録音の方)など。 夕方、帰宅。節分なので夕食は太巻。 今年の恵方は東北東ださうで、 そちらを向いて黙々と太巻を食べる。 私の家は蛸薬師通りの脇にあるので、 東西が瞬時に分かり、東北東を向くのも造作ない。

先日入会した、 日本チェスプロブレム協会からジャーナルが届いてゐた。 おお、素晴しい図譜が満載…ひとしきり、喜びの舞ひ。 少し驚いたのは普通のプロブレム(オーソドクスと言ふらしい)よりも、 ヘルプメイト、セルフメイト、 フェアリー、レトロと言つた変形問題が圧倒的に多いことで、 現代プロブレムの発展の方向を垣間見る。 以前の号の分の解答解説やトーナメント記事を見てみると、 あまりのレヴェルと芸術性の高さにくらくらした。 こんなの二手詰でも一題だつて解けるとは思へない。 個人的印象では、文字通りにマニアック、 これは行き過ぎてしまつた人達の楽園である。 オーソドクスの一題でも解いて提出し、 私もそんな人々の仲間入りをしやう…


2004/02/04 (Wed.) 援助の問題/自殺の問題

九時起床。まだ少し風邪が残つてゐる。 今日、自宅で静養すれば明日には完治しさうだ。 昼食は自宅で粗食。 午後は寝床で熱に少し朦朧としつつプロブレムを考へる。 昨日はとても無理だと思つたが、 オーソドクスの三題とヘルプの二題が解けた。 ヘルプメイト(*1)が意外に考へ易いし、面白い。 ミステリに喩へれば一種の不可能犯罪みたいな気分があるし、 冷静に考へてみれば、 勝敗の心理的要因抜きでメイト図への最短経路を探してゐるわけで、 より論理的に純粋な問題と言へなくもない。 ただ、通常のゲームの感覚が邪魔になるので、 それは忘れてかう言ふ問題なのだと、 割り切るのに慣れが必要と思はれる。 セルフメイト(*2)にも大変興味を魅かれるのだが、 あまりに考へ方が違ひ過ぎて、 今のところ手のつけ所が分からない。 歴史が古いらしいが、こんな変なことを誰が考へたんだらう。

カザルスのホワイトハウス・コンサートは癒されるな… 夕食は煮込み饂飩で身体を温める。 夜は軽く 30 分ほどチェロの練習。 メカニックを少しと、スケールをいくつか。

*1: ヘルプメイト: 黒(詰められる側)も白(詰める側)に協力して、 指定された手数でメイト(詰み)にする問題。 通常は黒番から始める。二手問題なら、 黒、白、黒、白(メイト)。

*2: セルフメイト: 白(詰められる側)が黒(詰めたくないが、詰めさせられる側) に強制することで、 指定された手数でメイトにする問題。 通常、白番から始める。二手問題なら、 白、黒、白、黒(メイト)。


2004/02/05 (Thurs.) パーキンソンの法則

九時起床。やはりまだ風邪は治つてゐない。 とは言へ、 明日からの入試採点には、ほぼ通常のコンディションで臨めさうだ。 昼食は炒飯など。珈琲豆が切れたので買ひ出し。 店に入つたところで雪。 しばらく、プロブレム雑誌と共に降り込められる。 オーソドクスが一題解けた。 帰宅して、午後は学科の Web サイトの雑用など。 私のやうな下端の抱くべき疑問ではないとは思ふが、 どうしてこう組織と言ふものは拡大、 拡充して行く必要があるのだらうなあ…

さう言へば、イギリスのパーキンソン卿とか言ふ人の研究によれば、 全ての組織はただ存在してゐるだけで、 つまり、実質的な生産量が全く増加しなくても、 人員の数は年 5 パーセント以上ずつ増加するさうだ(*1)。 これに従へば、 同じことをするのに必要な人員は十五年で少なくとも二倍になり、 言ひ替へれば、 組織の構成員は十五年で倍の速度で無能になつて行くことになる。 恐しい法則だ。

明日からしばらく入試採点。 終了の予定は来週末 14 日の土曜日。

*1: パーキンソンの法則: 「愚か者ほど出世する」(ピーノ・アプリーレ著/泉典子訳/中央公論社) pp.120 参照。


2004/02/06 (Fri.) 科学への道

今日から毎日、 採点なのでここに書く出来事もない。 例年通りまた本の話など。 丁度、今日 K 川先生が引越しが面倒で嫌だ、 と言ふやうな話をしてゐた。 私は今まで五回引越しをした。 東京の三鷹台、久我山、下北沢、 京都の山科、そして今の壬生である。 引越しで大変なのは何と言つても本である。 私は二十歳の頃の二回目の引越しの時点で、 既に千冊を越へる蔵書を持つてゐた。 それ以来、引越す度にかなりの量の本を処分して来たが、 その引越しを全て生き抜いた本たち、 つまり私が十代からずつと所有し続けてゐる本たちを挙げる。

「科学を志す人々へ」(石本巳四雄著/講談社学術文庫 637番) 昭和五十九年初版第一刷発行
昭和十四年に「科学への道」と言ふ題名で柁谷書院から 発行されたものの文庫版。 石本博士は東京帝国大学卒業後、 ランジュバン (ランジュバン方程式のランジュバン?)に学んだ地震学者。 出版の翌年に四十六歳の若さで脳溢血で亡くなつてゐる。 この文章を書くために少し読み返してみたら、 今の自分の程度の低さに自殺したくなるほど、 崇高で厳しい名著である。 この本に感動して、自分もこんな人になりたい、 否、ならねばならぬ、 と思つた高校生の自分に顔向けが出来ない。


2004/02/07 (Sat.) 秘密の庭

蔵書家のセオリーによれば、 「名著の普及版は捨てても良い」と言ふ。 なぜなら、広く価値が認められてゐる名著は (少なくともその内容については)、 未来のいつでも、簡単に手に入れることが出来るので、 蔵書家の貴重な本棚スペースと言ふ価値と 交換するほどのメリットがないからである。 しかし、本の難しいところは、 そこに言はゆるセンチメンタル・バリア が発生することで、 わかつちやゐるけど捨てられない、のである。 例えば、私が中学生の頃からずつと所有し続けてゐる、 以下の文庫本などは、 論理的には真先に捨てるべき本であらう。

「ブラウン神父の童心」 (G.K.チェスタトン著/福田恆存・中村保男訳/創元推理文庫/1978年第25版)
しかし、捨てられないのは、 これが私に小説を読むことの圧倒的な喜びを与へてくれた 本だからであらう。 この本の最初から三つの短編 「青い十字架」「秘密の庭」「奇妙な足音」を一気に読み、 深い溜息をついて一旦本を閉じた中学生の私は、 次の冷徹な事実に思ひあたつて軽いパニックに襲はれた。 すなはち、 ブラウン神父の冒険譚はたかだか有限個しかない。 それどころか、たつたの全五冊しかないのである! それからの私は、収入のない吝嗇家が貯金の残高を数へるやうに、 死期の迫つた老人が残りの日々を惜しむやうに、 ゆつくりとゆつくりと、 とつておきの日に、または最悪の日に、 新しい次の一篇を読み、終には全ての短編を読んでしまつた。 私は未だに、「ブラウン神父の醜聞」 最後の短編「村の吸血鬼」を読み終へたときの、 世界への絶望感と憎しみにさへも似た深い哀しみを忘れることができない。


2004/02/08 (Sun.) お取り寄せ

あるとき初めて本を取り寄せ注文をした。 今、その本を調べてみるに、私が十五歳の時のやうである。 年齢のわりに随分とうぶな話だが、 それまでは「本屋で注文する」と言ふことが、 そもそも全く頭に浮かびもしなかつたのである。 読みたい本があつても大抵は本屋か、 学校の図書館にあつたし、 なくてもそんなものかと思つてゐた。 そして、注文した本は以下の一冊であつた。

「虚無への供物」(中井英夫著/講談社文庫/昭和59年第20刷)
言はずと知れたアンチ・ミステリの傑作で、 当時叔父から譲りうけた欧米の本格ものを読み飽かし、 ちよつとしたマニアになりつつあつた私の目を、 ミステリの新たな可能性に開かせた一冊である。 廊下に腹這ひになつてこの本を読み耽つた夏の日の暑さと、 廊下の冷やかな感蝕を思ひ出す。


2004/02/09 (Mon.) カルキュラス

今日は教科書。言はゆるカルキュラス、 つまり大学一年生のときに習ふ「微分積分」 の教科書には、もういやと言ふほど様々あつて、 おそらく和書だけで百や二百、いやそれ以上あると思ふ。 しかし、その中で未だ現代における決定版と言ふものはない、 と私は思ふ。 昔はおよそ、高木貞治「解析概論」が決定版であつたと思ふ。 非常に明解かつ豊かな内容を持つ本で、 思つた以上に色んなことが書いてある。 実際、今、読んでもたまにハッとすることがあるくらいだ。 では、何故、今これが決定版とされないかと言ふと、 「難し過ぎる」と考へられてゐるからである。 実際、新しく大学で講義を持つことになつた若い講師が、 教養の微積分を任されて、 「解析概論をテキストに」などと言へば、 京大などならいざ知らず、 先輩たちから世間知らずぶりを失笑されるのがオチであらう。

「解析概論」(高木貞治著/岩波書店/改訂第三版軽装版/1984年第3刷)
高校の頃に地元の大型書店で購入して読んだ。 今もその同じ本を所有してゐる。 当時、自分は大人の本物の学問を勉強してゐるのだと言ふ、 子供らしい満足感もあつてか、 大変に面白く読み、特に分からないところはなかつた。 別に自慢話ではない。 数学少年は高校の頃までに「解析概論」くらいは、 特にストレスなく読み終へてゐるものである。 それにこれは私が和歌山と言ふ、 大変に文化的に遅れた田舎にゐたからであつて、 数学に興味を持つたところで、 街で一番の大型書店に置いてある本が精々、 高木貞治先生の本くらいなのである。 (今は理系の大学もあるやうだから、改善してゐると思ふが)。 大学に入つてから知つたが、 都会の早熟な数学少年たちは、 グロタンディークの何とかを読んだ、とか、 中学の頃に丁度、 ディユドネの教科書が翻訳されて近所の本屋においてあつたから、 解析はあれでやつたなあ、などとしたものなのだ。 勿論、早熟であることに特に意味はない。 人より早く知ることと、深く知ることや研究すること、 さらにはそのプロになることとは違ふ。 実際、早熟の数学少年たちは数学者にならないことが多いやうだ。 そんなとき、数学者仲間は 「彼(彼女)は数学をやるにはカシコ過ぎた」 と言ふものだが、 もちろん本気でさうは思つてゐないわけで、 そこには簡単には説明し難い複雑な嫌味があるやうに思ふ。 私が大学を辞めて古本屋にでもなつた暁には、 さう言はれるのではないかと今から心配だ(笑)

今日、解析概論を読み直してゐて思ひ出したのだが、 当時の私は複素解析が面白いと思はなかつた。 すつきりし過ぎたところが、空疎でつまらないとさへ思つてゐた。 内容を論理的には理解できてゐたが、 その本質や意味が正しく鑑賞できてゐなかつたのであらう。 ここに、私の数学の才能が「今一つ」 であつたことが表れてゐると思ふ。


2004/02/10 (Tues.) へんてこな事故ばかり、つぎつぎに、おこる日だった…

今日はかなり柔らかい娯楽作品。 昨日書いたやうに私はずいぶんな田舎の生まれ育ちで、 そのせゐか小説の中の世界が輝いて思へた。 特に、 私にとつての「都会的」「現代的」とはすなはち、 この著者とその世界のことだつたのではないか、と思ふ。 そして、今もその影響は消えてゐないのではないか、 とも思ふ。 少なくとも私は、カードの城の作り方も、 按摩とマッサージの違ひも、この人から学んだ。 大人になつて知つたのは、 彼の現代、都会、モダンと言つたものは、 現実にはどこにも、いつの時代にも、存在しないものであつて、 それこそが真のモダニズムの証拠なのである。 当然ながら、世界が彼に追いつくことはなく、 彼は逝つてしまつた。冥福を祈る。

「なめくじに聞いてみろ」(都筑道夫著/講談社文庫/昭和60年第8刷)
私は都筑作品は全て好きだし、 名作と言はれる作品が数多くあるが、 敢て一番馬鹿馬鹿しいものを選んでみた。 高校生の時には都筑作品はほぼ全て持つてゐたが、 今は数冊しか手元に残つてゐない。 この本はその一冊でもある。 以前にも紹介したことがあるが、こんなお話。 出羽の山奥から東京の街に、 桔梗信治と言ふ一人の青年がやつて来る。 その目的とは実は、彼の父親は暗殺法の考案の天才で、 その父が死んだ今、 東京に十二人ゐると言ふ、 父が通信教育した弟子たちを皆殺しして、 その悪魔の発明を全て闇に葬り去ることなのだつた… と言ふストーリーで、 この通り本当に素敵に馬鹿馬鹿しい。


[後日へ続く]

[最新版へ]
[日記リストへ]

Keisuke HARA, Ph.D.(Math.Sci.)
E-mail: hara@theory.cs.ritsumei.ac.jp
kshara@mars.dti.ne.jp (for private)

この日記は、GNSを使用して作成されています。