正常と異常と考えていて、ハタと思うところがあった。正常と異常とは紙一重、いえ状況によって異常は正常に、正常は異常になるのである。
では本日は正常と異常のパート2である。
インターネットの世界にまったく存在意義のないホームページが多々ある。これは異常なことであると思う。
どんなホームページかって?
それはこのウェブサイトをはじめとするおびただしい正論派ホームページのことである。

私のウェブサイトを取り上げると我田引水的と思われるから、師であり同志である
KABU先生のホームページを例に取って検討
(?)しよう。
KABU先生は憲法や教育やボケメディアや外交を熱く
(「暑く」かもしれない?)語っている。個々の論をじっくり読むと、まったく同感であり、いったい何でそんなに熱くなっているんだ?と疑問に思うことばかりである。
KABU先生の論に間違っているとか、エキセントリックとかいうものはない。当たり前のこと、常識なことばかりである。彼は常識を大声で叫んでいるのだ。KABU先生、なぜ当たり前のことを大声で叫んでいるのだ? それこそ、異常ではないか?
誰もが分かりきっていること、理解していることを街中で大声で演説していたらおかしいと思われること、間違いない。
そもそも演説とは皆が知っていないことを知らせめようとして行うものである。みなが知っていることを演説したら、罵声か紙くずでも投げられるのがオチというものだ。
キリスト教の宣教は信じていない者に行うのであり、教会の説教は信者が知らないことを語るわけだ。
コマーシャルは自社製品を知ってもらうために行うものであり、政党のマニフェストは政党の公約を知らない選挙民に自分たちの正当性を訴えるためのものである。
算数でいえば
『1+1は2である。』とか
『2+3は5になる』などと大書しているホームページなどはない。
もし
『1+1が3である』という新たらしい発想が生まれたなら、ウェブにアップしたり論文や本にする価値がある。
だれでも知っていること、常識とか当たり前ということはウェブに載せる意味がないのだ。誰でも当たり前と考えていることを本にしても売れない。

ところが現実には、当たり前のことを叫んでいるウェブサイトは数え切れない。
相方をはじめ、
北斗様、
水城様、もう数えあげればきりがない。そんなウェブサイトでは開設者はみな、日本人よしっかりせい!、従軍慰安婦なんてなかったよ、戦争を防ぐには戦争反対と叫んでもだめだよとか書いている。なぜ、そんなに一生懸命叫んでいるのだろう?それは当たり前なことではないのではないか?
このように当たり前のことを大声で叫んでいる人がいるということは、異常なことではあるまいか?
ちょっとまてよ、
私が当たり前と考えていることは、現代の日本では当たり前ではないのだろうか?
なんと、そういったことは当たり前ではないようなのだ。
現在の日本では、愛国心は間違っている、首相が靖国神社に参拝するのは間違っている、従軍慰安婦はいた、日の丸を揚げてはいけない、君が代を歌ってはいけない、などなどという考えや嘘が正常なものとしてまかり通っているのだ。
そう信じるのが正常となっているから、それに異議を唱えるウェブサイトがあるのは正常ということになる。
勘違いなされないように、
世間の常識に対して、反論を唱えるというならその存在は正常なことである。
世間の常識と同じことを唱えることは正常なことではない。
ということは我々、正論派は自らの存在を否定するがために存在しているという矛盾したものなのだろうか?
実は私はそう考えている。
一刻も早く、私たちの主張がこの日本の主流となり、存在意義がなくなり私は囲碁三昧、相方は仕事一筋に日々を送れるようになること、それこそが正常なのではあるまいか?
これは白日夢なのでしょうか?
Yosh様からお便りを頂きました(2004.06.05)
私が当たり前と考えていることは、現代の日本では当たり前ではないのだろうか? なんと、そういったことは当たり前ではないようなのだ。
多分現代の日本でなされている捏造の歴史や走狗の書く報道記事は当たる前であつて当たつていないことではないですか?
とうた様をはじめ皆様がなされているそれらに異議を唱えることは当然(当前?)であるはずです。
正常が「normal」ならばまさしくそれは正義とか真実ではなく「大多数」という意味と思います。
そして異常が「abnormal」であるならば、それは悪とか間違っているという意味ではなく「多勢ではない、少数派」のようです。
しかし、現実の世の中では多数が真実と見なされることが多いようです。
以前書いたことですが、私が小学校の時に子どもたちが問題の答えについて議論したとき、先生が「多数決で決めろ」といったことがあります。
呆れてしまいますね、
真実は多勢とか少数とかに関係ありません。現在当たり前となっていることの多くは初めに唱えられたときは少数派であることが普通です。
逆説的に言えば、もともと多くの人に支持されている論を改めて唱える必要はありませんものね、
現在少数派である私たちが多数派となれば、そんな当たり前の論をわざわざウェブサイトに書いたり、大声を出すことはなくなるだろうという、これまた当たり前のことだけのようです。
解法者様からお便りを頂きました(2004.06.07)
ここの管理人さんが「佐為」さんでしたか。
前にも「賛辞」したしましたが、感覚が鋭いですね。
短い文章の中に<含蓄>が散りばめられており、感嘆しております。
こちらは現役の<法学者>という範疇に入りますが、専門は「破産法・民事再生法」、「民事法」です。
『異常な事件より、正常の中の事件』に力点を置くべきだ、との論考は刑事法専門家にも聞かせてあげたい言葉です。いや、聞かせてあげます。
盲点ですね。鋭い指摘です。我々も含めて<法の専門家>は、刑事に限らず<異常な事件・事案>についつい目を向けてしまいがちですね。
それと、何かしら、『責任追求』ばかりで『息が詰まり』ます。
もう少し、逃げ場を作ってあげたらと思います。
どうも、最近はギスギスして困りますね。
会社も破産するのは責任もありますが、好きで破産した訳ではありませんから。
何でもかんでも責任では、責任を負う人がいなくなり、かえって『無責任』時代になります。<法の専門家>として「心しなければ」ならないところでもあります。
解法者様、恐れ入ります。私はあなた様のような法律家ではなく、KABU先生のような学問もありません。
正常と異常という言葉は、法律の世界ではどういう定義なのでしょうか?
私は単純に国語辞典とか英英辞典などの語義を基にしています。(手ぶらでは書けませんから)
英英辞典によると正常とはnoramlであり、大多数を意味するようです。
話が飛んでしまいますが、私はコレステロール値が正常ではないといわれていますが、いろいろな学会があり、ある学会によると私は正常値に入るようです?白血球の数も私が子供の頃とは正常値がかなり大幅に増加しています。
ということからも正常とはあるべき姿とか正しい状態という意味ではなく、モード(最頻値)あるいはマジョリティ(大勢)というだけのようです。
当然、異常とは正常の裏返しですから悪とか間違っているということでもなさそうです。マイナリティ(少数派)というだけのようです。
異常なものではなくその裾野で良く見かけることに手を打てというのはハインリッヒの法則といい、安全では昔からの手法です。日常、自覚していない不安全な状態や行為は相当あるでしょう。いつもやっていることだから、今までも平気だったので……、という不安全行為が、いつ重大災害になるかも知れません。
いつやって来るか分からない災害を未然に防ぐには、不安全な状態や行為を認識し、ヒヤリ・ハットの事象に対策していくのがセオリー。
ということを安全では当たり前のことを言ったまででございます。
ちなみにニューヨークの犯罪を激減させたのは割れ窓理論というそうです。重罪をいかに防ぐかではなく、ちいさな犯罪を漏れなく正していくという地道な活動が治安の回復につながったそうです。
解法者様から更なるご指導を頂きました(2004.06.08)
<法>の「正常」と「異常」
法律用語としての「正常」とは<「一般人の知識をもってすれば」予測することが可能>ということです。
この一般人とは日本国民という意味です。例えば、外国人にとって「正常」であっても日本国民にとって「正常」でなければ、「正常」とは言えません。
どこの国の<法>も同じですが、その国の人を律するためのものであるのが原則だからです。
「異常」はその反対です。予測することが<可能>とも<不可能>とも判断がつかないときも「異常」範疇に入ります。
例の<佐世保事件>は管理人さんのご指摘のように「異常」です。
解法者様、ご指導ありがとうございます。
なるほど!と理解しました。
山本七平氏の「アメリカの正常」とはまさしくそういう意味だったのですね、
言葉の意味を良く噛み締めて使いたいと思います。
ルーイ様からお便りを頂きました(2004.06.07)
ファンレターです
佐為様、こんにちは。
最近の佐為様、シリアスですね。哲学的とでもいうのでしょうか。
正常と異常その2は難しいデス。本当の意味を理解するのに苦労しました。(私だけ理解できてないかも?)
私の個人的な事なのですが、とにかく身内ぐらいには、私の考え(例えば「サヨクに騙されたらダメ!」みたいな)を分かってもらわねばと頑張っていても、ちっとも効果が上がりません。もう、くたびれてしまいました。
そして世間を見ると、相変わらずおかしな報道がまかり通っています。
そんな時、佐為様のホームページはオアシスです。
「我々、正論派は自らの存在を否定するがために存在しているという矛盾したものなのだろうか?実は私はそう考えている。」
私もそう思います。 なんか、矛盾した存在ってつらいですね。
1日も早く主流派になる日が来ることを祈るばかりです。
ルーイ様、シリアスとは何です!そんなボケをかましていては「メッ!」ですよ! 
私はシリアスとは対極にいるダジャレとボケ人間(大いに怪しい、動物かも?)です。
いかなることにおいても人間、深刻真剣になることもありますまいというのが私の生き方です。
もちろん仕事もです。といってもこれは諦念というのかもしれません。人と同じ努力(あるいはそれ以上)しても昇進などがそれにリンクするわけじゃあありません。自分の親族・家族などのしがらみなども人それぞれです。人間を40年以上してきた結果、一生懸命は自分によくないいんじゃないか?と考えて何事も気楽お気楽に見るようになりました。
断っておきますが、仕事を手抜きとか自分自身努力をしないということではありません。同じ事をしていても少し斜めに見ると気楽にもなれるし新たな視点も開けるという気がするだけです。(本当かどうか怪しいですよ)
ということでなにかお役に立ったでしょうか?立たなくても元々ということで・・・テケテケ(太鼓の音)
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