「日本医学会」についての論争




   [1]「日本医学会」についての論争(帰国から日清戦争勃発まで)

 明治21年9月に帰国した鴎外は、翌年1月から当時の主要な医学雑誌であった「東京医事新誌」(週刊)に「緒論欄」を新たに設けて主筆となった。「第1回日本医学会」は最初の全国的な医師の大会であり、医学界の長老たちが資金を拠出して、翌年の国会開設を期して開催する計画だった。「東京医事新誌」はこの医学会の広報を担当すべき位置にあり、鴎外はその責任者だった。ところが、鴎外は「日本医学会論」を書いてこの計画を批判し、明治22年12月に「東京医事新誌」を追放された。「舞姫」はこのゴタゴタの中で書かれ、追放の翌月に発表された。
 鴎外は追放後すぐに自前の雑誌を発刊して、医学会批判を続けた。鴎外の批判の要点は、今回の医学会がドイツの学会のような学問上の業績を挙げた学者たちによる医学の進歩のための学会になっていないことにあった。しかし、当時の日本の医学界は鴎外が主張するようなドイツ式の学界が成立する状況ではなかった。明治30年の時点でさえ全国の医師39214名のうち、大学卒業生は458名という統計がある(松原純一「森鴎外 『傍観機関』論争」)。大半の医師は大学以外のさまざまな養成機関出身の西洋医と旧幕以来の和漢方医であり、特に和漢方医は全体の4分の3を占めていた。こうした医師が全国で開業し患者を抱えていたのであり、彼らを組織し、近代医学の知識を伝えることは日本の医学界独自の課題であった。このような状況で第1回日本医学会は全国の医師の組織化の第一歩としての意義を持っていた。
 明治23年4月に開かれた医学会は、主催者たちによれば「前代未聞の盛会」(「東京医事新誌」)となった。全国から千数百名の参加者があり、一週間にわたって当時の名の知れた医学者のほとんどが講演をおこなった。鴎外の友人である青山胤通・賀古鶴所らも講演している。鴎外の講演も予定されていたが、前日になって拒絶の手紙(明治23年4月3日付)を送り、この時点における日本の医学界での鴎外の孤立が確定した。
 医学会問題に限らず、鴎外の「緒論欄」の全体が当時の医師の間では不評であった。鴎外は「緒論欄」の趣旨を「医学に関する時事を論ぜん」と説明しているが、その時事の扱い方について、鴎外の後任の主筆となった岡田和一郎は回想録の中で当時雑誌の主宰者であった二神寛治の次のような判断を紹介している。

 森氏が緒論欄に掲載せしめたる論文は其引用も該博であり文章も立派であつたので一部の読者が慥に之を欣んで愛読したのは事実であるに相違ないが、併し其内容は多少衛生学に関係する者がないではなかつたが、其大部分は餘りに実地臨床医学に縁遠いもの計りであつたので、読者中の実地医師の声としては寧ろ臨床の診断治療に関する記事を尚ほ一段豊富ならしむる事を要望する様になつた」
 「『東京医事新誌』が三千号に達したるを祝し且つ同誌と余との過去に於ける関係を序述して当年を偲ばん」 (昭和11年9月「東京医事新誌」)

 鴎外の論文が外国の論文の幅広い引用と文章の修辞に凝るばかりで、実際の診療には役に立たなかったことが端的に述べられている。鴎外の能力はドイツ語と漢文の語学力に限られており、「緒論欄」の論文は結局先進国から得た知識のひけらかしにしかならなかった。後任の岡田は鴎外の「緒論欄」を廃止して、「治病要報」欄を新設し、「診断治療に関する実験事項を簡単要約的に記述して報道」することにした。

 明治26年4月には北里柴三郎を会頭として第2回日本医学会が開かれた。翌月から日清戦争勃発までの1年3ヵ月の間、鴎外の医学論争の中心と言われる「傍観機関論争」が展開された。鴎外の主張は前回と変わっていない。鴎外の孤立ははっきりしていた。そのため鴎外は自分の雑誌を「傍観機関」と名づけた。
 この論争で特徴的なことは、鴎外が実質的に医学会を主宰していた当時の医学界の長老たちを「反動」と呼び、攻撃したことである。当時の医学界は世代交代の時期にあった。医学会を提唱した長老たちは幕末に西洋医学を学んだ人たちであり、新しい世代には北里に代表されるような世界的業績を持つ学者が現れていた。鴎外は医学会を長老たちが医師の多数を占める和漢医や新設の専門学校出身の開業医を組織して大学出身の医学者を孤立させようとする策動だと批判した。長い論争を通じて長老はもちろん姿を見せず、鴎外が擁護すると主張した新進の学者は鴎外の友人たちを含めて誰一人鴎外に味方しなかった。
 鴎外が批判した長老たちは日本の近代医学の創始者と言われている人々である。代表格の松本良順は緒方洪庵の後を継いで旧幕府の西洋医学所頭取を勤め、維新後兵部省に出仕して陸軍軍医部を編成し、初代陸軍軍医総監となった。鴎外は松本の推薦で「東京医事新誌」の主筆となっており、追放のとき松本は鴎外の弁明を一言も聞こうとせず、頭から叱責した。鴎外はこの叱責に対する不満を自分の雑誌で公表している。また、長老たちの一人で医学会の実務を担当した石黒忠悳は松本の勧めで兵部省に入り、陸軍軍医部の成立に係わった人で、当時の陸軍軍医学校長であり、軍医学校の教官だった鴎外の直接の上司であった。こうした人間関係では「東京医事新誌」追放の一件だけでも取り返しのつかない失態であるが、鴎外は足掛け6年に亙って長老批判を続けた。しかも論争の最中の明治26年11月に鴎外は石黒の後を継いで陸軍軍医学校長となり、日清戦争中は第2軍兵站軍医部長等を勤めた。このことは当時の日本にあって鴎外のような留学経験のある者がいかに限られていたか、そのために彼らの地位がいかに安定していたかを物語っている。
 「傍観機関論争」の主な相手になったのは「東京医事新誌」ではなく、山谷楽堂というジャーナリストを主筆とする「医海時報」という二流の雑誌だった。この論争は批評家によって「戦闘的啓蒙」(唐木順三)と言われているが、当時の医学界では最初から最後までまったく相手にされておらず、啓蒙とは程遠い。「緒論欄」を開設したとき、鴎外は医学の分野において福沢諭吉のような啓蒙家になろうと企図したとも言われている(小堀桂一郎「森鴎外 文業解題 創作篇」岩波書店301頁)。ジャーナリスティックな名声を得たいという鴎外の野心は無残な失敗に終わった。  (文責 長谷行洋)

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