陸海軍における脚気の問題




    [2]陸海軍における脚気の問題

 脚気は白米を主食とすることによる病気で江戸時代からあらわれ、明治になっ て増加した。特に兵役に服する年齢の若者に多く発生し、陸海軍の軍医にとって 解決すべき大きな課題になっていた。当時陸軍が東大とともにドイツ式の医学を 採用していたのに対して、海軍ではイギリス式の医学を採用していた。ドイツ医 学が細菌学中心であったのに対して、イギリスでは病気を生活環境との関係で捉 える疫学が中心であった。脚気問題を解決したのはイギリス医学を学んだ海軍の 高木兼寛であった。
 明治13年に高木がイギリス留学から帰国したとき、海軍では総兵員数450 0名ほどのうち3分の1が脚気の患者であり、年に30名以上が死んでいた。高 木はイギリスに脚気患者がいないこと、また艦艇の遠洋航海記録を調べると外国 の港に停泊中は脚気が発生しないこと、士官より兵士に重症者が多いことなどか ら、兵士の食事に原因があると考えた。そして兵食を分析した結果、タンパク質 が少なく含水炭素が多い場合に脚気が発生すると結論し、予防策として兵食をパ ンや肉食中心の洋食に変えることを提案した。
 高木の提案は兵食の制度や予算、兵士の食習慣などが障害になって簡単には受 け入れられなかった。高木は海軍病院での洋食と和食の比較実験などの研究によ って上層部を説得しつづけた。ちょうどそのとき軍艦「龍驤」の事件が起こった。 明治15年の暮れから10ヵ月の航海に出ていた「龍驤」は翌年9月に帰国した。 この航海は乗員378名中169名に脚気が発生し、内23名が死亡するという 海軍にとって危機的な結果になった。高木は「脚気病調査委員会」の設置を進言 し、すぐに受け入れられた。高木はこの委員会を足掛かりにして海軍内の兵食に 関する制度をやつぎばやに改革した。
 高木の奔走によって「龍驤」事件のわずか5ヵ月後の明治17年2月に予定さ れていた軍艦「筑波」の遠洋航海は「龍驤」と同じ航路による兵食比較実験とす ることが決定された。高木は綿密な準備をして「筑波」を出航させ、11月に帰 国した時には乗組員333名中脚気患者なしという画期的な成功を収めた。兵食 の変更によって明治17年の海軍全体の脚気患者は激減し、死者は8名であった。 このような高木の活躍によって海軍の脚気問題は解決された。このときの高木の 研究は現在ではビタミン発見の先駆的事業として高く評価されている。

 陸軍の脚気問題はまったく違った展開を遂げた。海軍の「筑波」の成功の翌年、 陸軍の石黒忠悳は「脚気談」を書き、脚気の原因を黴のような細菌として高木の 兵食論を批判し、東大の中心的な教授であった緒方正規も「脚気病菌の発見」を 発表した。ドイツ医学に基づく陸軍軍医の上層部や東大では脚気の原因を特定し ない高木の研究をまったく受け入れなかった。陸軍の脚気対策は石黒の指導のも とに兵舎の空気流通の改善を中心として進められた。
 やがて緒方の「脚気菌」説はかつての助手で当時ベルリンのコッホの下に留学 していた北里柴三郎によって否定されることになった。北里はまず緒方の発見を 支持したオランダの医学者ペーゲルハーリングに反論し、明治21年には緒方の 論文も詳細に検討して「脚気菌」の存在を否定した。緒方は一応の反論はしたも ののその後は脚気研究から手を引いた。
 また陸軍でも、各地の部隊では高木の研究を参考にした現場の軍医の判断によ って麦飯が採り入れられていった。明治21年9月に鴎外が帰国した頃は陸軍の 各部隊での脚気は激減しており、陸軍省医務局の反対にもかかわらず、明治24 年までには全部隊が麦飯を採用して陸軍の脚気も絶滅状態になった。医務局は脚 気絶滅と麦飯との関係を認めず、流行の沈静と捉えていた。鴎外は脚気の問題に ついては石黒に忠実で、帰国の年の12月に「非日本兵食論将失其根拠」という 著作を自費出版している。これは石黒の「脚気談」と同じ立場に立って白米食を 擁護し洋食論を批判したものである。

 こうして明治27年の日清戦争を迎えた。高木が指導した海軍では麦飯を採用 し、脚気患者は一人も発生しなかった。これに対して陸軍では食糧を陸軍省医務 局が一元管理し、全部隊に白米を支給した。その結果、戦死者453名に対して 脚気による死者4064名を出した。陸軍の病院では入院患者のうち戦傷者1名 に対して脚気患者11名以上というありさまだった。戦後半年ほどして、福沢諭 吉発行の「時事新報」に海軍軍医の「兵食と疾病」という調査記事が掲載された。 これは初めて公の場で行われた海軍からの陸軍非難であった。この記事をきっか けにその後も陸海軍の論争は続いたが、陸軍上層部は細菌説を採りつづけた。そ のため10年後の日露戦争では陸軍の被害はさらに拡大した。戦死(即死)者4 万8400余名に対して傷病死者3万7200余名、うち脚気による死者は2万 7800余名にのぼった。当時の日本軍は突撃の際にも酒に酔っているようだっ たと言われており、それが脚気のためであり、原因が白米であることはロシア軍 にも知られていた。実際には戦死者にも脚気患者が大量に含まれていると考えら れる。陸軍は旅順、奉天陥落後の明治38年3月末、脚気対策として米麦7対3 の混食奨励の訓令を出した。陸軍の公式記録では脚気患者数は25万人とされて いる。海軍の脚気患者は105名であった。
 医学史の研究者によると日露戦争当時の陸軍軍医部の内情は次のようであった。 医務局長であった小池正直は麦飯の脚気予防効果を認めていた。第1軍軍医部長 であった谷口謙は開戦早々に麦飯を支給するよう意見書を提出していた。第2軍 軍医部長であった鴎外のもとには部下の各師団の軍医部長から麦飯支給が進言さ れていた。実地の経験から軍医たちの間には麦飯の脚気予防効果が広く浸透して いた。反麦飯論を採るのは軍医部の長老ですでに退役していた石黒忠悳と鴎外で あった。当時はこの二人に東大医科大学長の青山胤通を加えた三人が強硬な反麦飯論者であった。日露戦争の犠牲者に関しては三人のうちの唯一人現役軍医だっ た鴎外の責任が重視されている。

 戦後、明治41年5月になって「臨時脚気病調査会」が陸軍の提唱で設立され た。医務局長になっていた鴎外は会長を勤めたが、その発足会で陸軍大臣の寺内 正毅が陸軍では麦飯を支給すべしと宣言して陸軍の方針は決着した。その後、大 正元年の鈴木梅太郎のオリザニンの発見などによって脚気問題は医学的にも解決 した。鴎外は退役後も死の年まで脚気調査会の臨時委員を勤め、毎回欠かさず出 席したが、反麦飯論の誤りについて公式に認めることはなかった。これに対して 石黒は晩年に誤りを認めた。  (文責 長谷行洋)

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