ペスト菌の発見について



[3]ペスト菌の発見について

 ペスト菌は明治27年5月に内務省からペスト病調査のため香港に派遣された 北里柴三郎によって発見された。北里の業績としては破傷風菌の純粋培養やジフ テリアの抗毒素を発見して血清を開発したことが有名であるが、これらはすべて ベルリンのロベルト・コッホの研究室に留学中の仕事であった。帰国後のペスト 菌発見については長く日本では認められなかった。この背景には北里が留学時代 に緒方正規の「脚気菌」を否定したことに始まる北里と東大派の学者との対立が あった。緒方はドイツ留学後日本に細菌学を紹介し東大医科大学で日本人初の衛 生学教授となった人物で、北里も留学前には緒方から学び、緒方の紹介でコッホ の研究室に留学した。高い権威を持っていた緒方に対する北里の反論は大問題と なった。当時の日本には医学的判断を下せる者がおらず、北里への攻撃は忘恩だ とか不徳だとかいう中傷に終始した。
 明治25年5月、北里は外国の大学からの招聘を断って、日本の伝染病研究の ために帰国した。当時の日本ではコレラ、天然痘、赤痢などの伝染病が猛威を揮 っていた。明治26年の統計では伝染病による死者は5万人を越えている。しか し、東大との対立のため北里には研究を続けるための施設が与えられなかった。 北里の所属していた内務省では衛生局長の後藤新平が高木兼寛や石黒忠悳の支持 を得て北里を所長とする伝染病研究所を設立するよう働きかけたが、新たな研究 所は東大医科大学の下に設立すべしとする文部省の反対で成功しなかった。北里 の帰国によって、北里と東大派との対立は内務省と文部省(東大)の伝染病政策 の主導権争いに発展した。
 北里の窮地を救ったのは福沢諭吉であった。福沢は欧米の新聞などで北里の業 績を知っており、私財を投じて10月には伝染病研究所を開設させた。研究所で の北里の活動は国会議員にも支持され、翌26年2月には内務省用地への拡張移 転が決定し、9月には同じく福沢の援助で日本初の結核患者のためのサナトリウ ム「土筆ケ岡養生園」を開設した。福沢はこのサナトリウムからの利益によって 北里の研究資金を確保しようとし、事務長に腹心の弟子であった田端重晟を据え た。27年2月には500坪の新用地に先進諸国の研究所に劣らない規模を持つ 研究所が完成した。この間、東大派は用地付近の住民に働きかけて反対運動をや らせた。福沢は住民たちの不安を取り除くために新研究所のとなりに次男の住居 を新築した。北里の研究所はこの後、内務省の所管となって拡張され、伝染病の 予防治療で大きな役割を果たした。北里の研究所での医学的成果としては北里の ペスト菌発見の他に志賀潔の赤痢菌発見がある。

 新研究所が完成したばかりの5月、北里はペスト調査のため香港に派遣された。 これに対抗して東大は青山胤通を派遣した。北里は到着の2日後にはペスト菌を 発見し、動物実験を済ませ、その成果を「ペスト菌(予報)」としてイギリスの 医学雑誌に発表した。続いてサイゴンから派遣されたフランスのアレクサンドル ・エルサンもペスト菌を発見したと発表した。ドイツのコッホは北里から送られ た菌を培養し、エルサンが発見した菌と比較して同一であることを確認した。青 山は劣悪な環境で解剖を繰り返し、自らもペストに感染してしまった。
 北里の論文にはペスト菌の性質の記述でエルサン菌との二つの相違があった。 最終的には明治32年秋に神戸で流行したペストを調査した際に北里が香港での 報告の部分的な誤りを認めた。しかし、東大派は一貫して北里の発見した菌自体 を偽ものと主張した。この東大派の反発が現在まで尾を引いた。最新の研究では 当時のコッホの認定と同様、北里の菌とエルサンの菌は同一であったと認められ ており、したがってペスト菌の第一発見者は北里であるとされている(1980 年刊の宮本忍「森鴎外の医学と文学」(勁草書房)では北里とエルサンは「同じ 桿菌をみていたと考えてもよさそうである」と断定を避けている。1996年刊 の土屋雅春「医者のみた福澤諭吉」(中公新書)では同一だったと断定している。 土屋の断定の根拠はペスト菌発見100周年の1994年に香港で開かれた病理 学の国際学会での評価である)。

 鴎外は北里と東大の対立についてたびたび発言している。ここではその中から 時代を異にする二つの発言を紹介する。
 対立の発端となった「脚気菌」問題について鴎外は「東京医事新誌」の主筆と して、北里の反論を「忘恩」とする批判を退け、北里は学問を重んじるあまり、 「情」を忘れただけだと書いた。他の北里批判と同じく当事者の師弟関係にだけ 注目した医学的判断のない論評であるが、帰国後の鴎外が北里に対して行った発 言の中ではもっとも好意的な文章である。これに対して北里はドイツから「東京 医事新誌」に「与森林太郎書」を寄稿した。これは鴎外の論評が権威のある「東 京医事新誌」の主筆の文章であるため、同じ雑誌で日本の医学界に対して自分の 見解をはっきりさせておこうと考えたのだろう。北里は医学的判断だけが問題で あることを強調している。日本の医学が未発達で簡単にごまかしが効くことを指 摘し、当時の日本がヨーロッパに対抗できる医学を育てる上で大切な時期にあり、 新しい医学を根づかせるためには私情を棄てた「公情」を取ることが必要であり、 自分はそれを実践したと述べている。
 10年後のペスト菌発見論争で鴎外は「此度の病原菌争には己が公平な判断を 下すに最も適当して居ると自ら信ずる」として次のように書いている。

 「北里の香港から捕へて帰つた菌が贋物で、仏蘭西のエルザンが見出した菌が本ものであつたといふ事は、欧羅巴ではとつくに知れて居る。それがこつちでまだ問題となつて居たのは、衛生局や何かが政府の威光を以て北里を掩護して居たのである。」
 「内務省は北里を派し、大学は青山を派して、彼は細菌学上、此は臨床上の調査をした。公平な目から二人の功績を見るときは、縦ひ北里の捕へた菌が真物でも、或いは青山の功績と高下は無いかも知れぬ。然るに北里は菌を見出したといふので、彼の自らペストに罹って、九死に一生を得た青山よりも、高等な勲位を博した。今其菌が贋物であつたといふことを自ら承認せねばならぬ場合に立ち至つて見れば、北里たるものは少しく自ら省みざることを得ない筈ではあるまいか。」(「北里と中浜と」)

 この文章の医学的内容は東大派の擁護にしてならないほど質が悪い。前半のヨ ーロッパの事情は世界の細菌学を指導していたコッホの認定に反している。後半 ではペスト菌発見にも匹敵するという青山の業績が医学的に評価されていない。 「自らペストに罹って、九死に一生を得た」ことが北里の勲章との比較で強調さ れているだけである。青山の感染の際には彼の解剖を手伝った日本人医師二人も 同時に感染し、一人は死亡した。青山はこの時の経験に基づいてペストの感染経 路や病気の経過について正確な報告を残した。それはペスト菌発見ほどではない にしてもペスト病の把握として医学的に貴重な資料となった。鴎外の文章は「読 売新聞」の「茶ばなし」欄に掲載された。鴎外は読者に医学的知識がないことを 前提にいい加減な放言を並べている。これは「左遷」と言われる小倉転任半年後 の文章である。
 さまざまの発言を通じて鴎外は北里の能力を認めず、その業績をコッホの下で 勃興期の細菌学を修めた運の良さに帰している。北里と東大派の対立に関して陸 軍にいる立場を利用して対立の圏外から「公平な判断を下す」と言いながら、東 大派の主張を代弁している。そこに医学的判断はなく、当時の医学界の人間関係 や政策についてのゴシップ的文章がほとんどである。散見する医学的記述につい ては現在の専門家が読んで「理解に苦しむ」(前掲 宮本 85頁)とされている。 これに対して対立の当事者は皆医学者であり、北里はもちろん、緒方や青山にし てもそれぞれに医学的業績を積んでおり、その成果によって対立していた。北里 や青山がペスト菌と格闘しているときに、ペスト騒ぎは勢力拡大を狙う内務省の 謀略だと宣伝するのが鴎外の買って出た役割である。鴎外はこの対立に係わった 人々の中でも孤立していた。

 大正3年10月、青山が主治医を勤める大隈重信の内閣で北里の研究所を文部 省に移管することが閣議決定され、決定後北里に通知された。北里以下の職員は 揃って辞職し、新たに私立の北里研究所が設立された。その資金は福沢がサナト リウムに派遣した田端の20年来の蓄財によった。当時医務局長だった鴎外は空 になった状態で文部省に移管された研究所の人員補充に協力した。  (文責 長谷行洋)

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