アート織田の週末画廊日記
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2004年9月12日

タイトル:うんう
作家: 平岡昌也
場所: ギャラリー・レコルテ


うんう(部分)・会場にて撮影(Infobar@AU)

 雨滴とは予(きざし)・予感である。それはロードスターに乗る私だけが気にするものではない。布団を干すお母さんも、セメント工事のおじさんも、F1の監督も、皆小さな雨滴にビビリまくる。最初の小さな数滴で、行動を起こすには十分だ。
 そういう意味で、平岡さんの絵も、これで十分だ。さらりと塗られたカンバスに、盛り上げるように、大切に、きらびやかに飾られた雨滴。雨滴の中にもさらに雨滴。この数えられるほどの雨滴が、想像の中で画面を埋め尽くしていく。
 雨滴シリーズは連作で、少しずつ様相を微妙に変えていくけれど、見るたびにすごいなぁと思ってしまう。画面に張り詰めた緊張感は大小にかかわらず、周囲を圧倒していく。
 ひかえめさの持つ実力。先生の言うところの「無言であることの力」。


 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」コリントの信徒への手紙二 / 12章 9節

 私はこういう言葉を思い出します。まあ私の場合、異端的曲解の大王なので、言葉そのまま、ストレートに受け取ってしまうわけですね。しかもカフカ的に。
 運命を享受した上で、耐え忍ぶ力、その力自体の総量は驚くほど大きいものだと。
 また象徴派的には、その力が、表面にちょっとずつ、感覚的に知覚しうるさまざまの手がかりを通じて、根源的な諸観念をはらむひそやかな親和力を通じて、象徴としてあらわれるということだ。
 ちなみに聖書では10節へとこう続きます。

 だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 で、さて、私はどうなんでしょう。とりあえず、祈りつつ、黙るとします〜〜。

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