アート織田の週末画廊日記
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2005年4月2日

作家: 武内貴子
タイトル: 個展
場所: CAギャラリー


 ギャラリーCAは独立プロテスタントの教会である。この展示室とはその礼拝堂に他ならない。
 当然私はキリスト教的見地でこの作品を見てしまう。というか、作品が多分にキリスト教的なのだ。
 それは網。まぎれもなく、部屋は白い網に取り囲まれている。
 聖書の中で網というと、天国の例えを思い出す。
 マタイによる福音書13章47節から。

また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

 なんて救いのない章なんだろう。といつも思う。もちろんイエス・キリストは神の右に座してとりなしてくださるわけだから、そのようにお願いするのだが、この章だけ取り出してみると、やっぱり心細い。
 とはいえ、この網の質感はもやのようで、すごくやさしい。網の向こうにあるピアノはやさしい思い出のようだ。
 網の中にいる間は、魚は何処にいるかはわからない。水から揚げられて、初めてその事態を認識する。
 私たちはせいぜい見えにくい網の中で、少しを楽しみ、多くを悩み、不安になり、懇願するしかないのだろう。


 多くの人生は苦しいものである。
 一つの運命が一人の人間を選ぶ。とムルソー君は言う。
 反キリストと罵られる彼も、絶対他者はちゃんと認めている。
 運命を決める神は絶対他者なのか、心痛む神なのか。一神教では、ある時はドラマチックで、ある時は悲惨を極める、多面性のある運命の解説に、かならずこうした矛盾が生まれてくる。
 しかし運命は多かれ少なかれ、苦痛の十字架を背負うものならば、すべての人とそれを背負い共に歩もうというイエスは、やはりキリストなのだなあと思う。

 というわけで、今日のひとこと。
 ブーツ仕上がりました!土日フル稼働。


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