「とりわけ、その覗き穴を清潔にしていなければいけない」とは、うちの先生の言葉。
とにかくひたすら人の心の内面を見るというのは象徴派の鉄則ではあるが、美術が個人の主張を超えるには、その事が絶対に必要であるのは間違いないだろう。
個人の趣味を越える「極めつけの良いもの」というのは、自然の中にあり、一人一人の中に潜むものである。
そのためには、心の奥底の輝きを見逃さないものであり、さらにそのためには、象徴派のように、内面をいやになるほど見つめ続け(ある時は自然を見つめ)、感度を上げていかなければならないわけだ。
画家はそれを引き出すと同時に、形に換えて定着させる。
その難易度の高い作業を坂本善三は見事にこなしている。そう思う。
詩の先生は「できるだけ正確な表現は避けるように」という。
基本的にそれは掴み所がないもののようだ。だから周囲を固めるように、曖昧な部分を押さえていくしかないのだろう。
その幽かな(かすかな)象徴としてとらえ、寄せ集めるのは象徴派だ。
で、例によって私の場合、とにかくごちゃごちゃになって、駄目ですね。駄目。
というわけで、今日のひとこと。
駄目です