アート織田の週末画廊日記
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2005年7月30日

作家: 森田加奈子 他
タイトル: BOOTHEXHBITION 2005
場所: 3号倉庫


 今回のBOOTH EXHIBITION に参加された方々、寺江圭一郎、平岡昌也、桝田さつき、山崎祐子さんの作品の中から、感想が書きやすいという理由という、皆様に申し訳ない理由で、今回は森田さんの作品について書かせていただきます(汗)
 というのも、作品と「何もない空虚感を埋める感覚/残したいという無意味にも思える欲」という添書きを見て、「何もかももの憂い(1-8)」という旧約聖書コヘレトの言葉を思い出した。
 現実の2つの問題、人生における空虚感と存在意義という命題は、(前にも書いたが)重要課題である。
 コヘルトでは「短く空しい人生の日々を影のように過ごす人間(6-10)」「人間は動物にまさるところはない(3-18)」とあり、「飲み食いし、太陽の下で苦労した結果のすべてに満足すること(5-17)」「神を畏れ、その戒めを守れ(12-13)」と結ぶ。
 しかし、いささか単純過ぎないか。もしかして、そうかもしれないけど、ちょっと待ってくれと私は思っている。
 新約聖書の福音書を見てみよう。ここではちょっとニュアンスが違う。
 山の上の説教では「あなたがたは地の塩である(5-13)」「あなたがたたは世の光である(5-14)」とあり「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたの立派な行いを見て(5-16)」という。
 宗教的には、単純に正しい行いを勧める部分かもしれないが、この塩という比喩は文学的にも、食品学的にも魅力がある。
 人生における存在意義とは塩味なのか〜、と一を聞いて十を知る画廊日記の読者にはそれ以上の事が伝わったと確信するが、個人的にはこの辺についてもうちょっと考えたいと思ってる。
 一方、絵は儚さげで美しい。ダンボールに直接書かれた「存在の軽さ」、悲しいタッチと独白的な内容、それらは映画的であり、あたかも未完成のように止めたことが、とても詩的である。


 一方で映画「過去のない男」を思い出す。思い出すというより、挿入歌が流れてくる。サントラはAMAZONくらいでしか買えないが、憂い度は近い。
 しかしまあ、さっきから憂い憂いというとりますが、心の片隅ではそれに抗してるんですけどね、片隅で。
 まあ私、所詮小物ですし、世の光といってもちっちゃいもんですし、テーゲーなところ、、グレーなゾーンが多いです。
 そしてきっと私は弱く、あまりの空しさはデカダンスへと、流れてしまいそうです。

 というわけで、今日のひとこと。
 「そこまで腐ったか!(おびわん・けのーび)」


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