消えて行くということ
対象を色彩と構成で平面に捉えなおすということは、ある意味埋没である。
対象を平面に埋没させるというだけでなく、作家の視点も埋められるべきだろうし、見る人の気持ちもそこにあるべきだろう。
ここに書かれているのは海を背景にした二人の人物像である。
この絵の場合、この埋没度が程よく高い。まるで、錆びて埋まってきているかのようだ。
すでに背景の模様のように形が崩れ去ってきていて、おそらくこのまま、消え去る様に感じられる。
私はいつも(カフカ)先生を心にとめているのだが、そういう感覚でいうならば、断食芸人を思い出す。(当然、変身、掟の門前、判決もすぐに出てくる)
断食芸で脚光を浴びた断食芸人が、あまりに長い断食に挑んだため、観客からも、主催者からも忘れられ、敷き藁の一部になり、掃き出されるという話しだ。
人間は誰しも、過ぎた平凡さや、孤独や、老いへの恐怖感を持っている。
私がいつか独居老人になり、人知れず息を引き取れば、この画廊日記もビットの渦に消え去って行くのだなあと、そこまで、考えていた。
海と言うのは、広過ぎて怖い面がある。
海原に描かれた、波のような二人は、はるかから吹きつける湿った風を感じるただろうか。