存在の哲学
以前も書いたが、ヴィドゲンシュタイン以降、現代の哲学の必要性は、社会的存在として重要なことは、他者からのプラスの認識であることにポイントをおくわけである。
実生活において、ニーチェになんの必要性がないのは、その点に欠けるからだ。
要は個人が存在していく上で重要なのは、他者とのリアルな接触であり、外からの認識であるわけだ。
そうなると、仮面(ペルソナ)は対外的な人格(すなわち個性)であるわけだが、場合によってはそれが、自己の内在する本質的なアイデンティティー(まあ、仮にそれがあればの話)よりも、存在上、大きなウエイトを占めているかもしれないわけだ。
つまり、例えば僕が明日死んで、「あの人はこうだった」と語られる事が、”重さ”なわけで、もし僕が誰にも知られず人生を送ったなら、「いたっけ?」というくらい”軽い”わけですわ。
しかし、画廊日記という著作物は、存在を証明するものではないうえ、(まあ誰が書いているか知る人は少ないということ)、契約切れと同時にビットの塵と消えていく運命にあるわけで、命と同じく何て刹那なんでしょうね。
話はそれましたが、大木さんの作品「面(おもて)」は、そのリアルな接触の重要性について考えさせられます。
顔が大事。服も大事。いや、それ以前に、人と会えってね。
この異常なまでの友達の少なさについては、ちょっと反省させられます。
僕の葬式って本当に誰か来るの?とリアルに心配していても意味はありませんが、社会性というのが、大変重要というのは、確かです。はい。
どーでもよくない話「いや、本当に来るの?」
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