アート織田の週末画廊日記
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2006年9月3日

作家: 寺江圭一郎
タイトル:カミサマ教
場所: 3号倉庫


会場にて撮影 (CACIO G'z One Type-R VGA by KDDI)


 私の場合、日本基督教団の中でもカルヴァン的考え方の信徒なので、一応「神」というものに対しては、思うところがある。
 神とは、三位一体の神であり、アッバ(父)なる神であり、ヤハウェーであり、イエス・キリストでもある。
 ちなみにそれは旧約の神でもあるので、ユダヤ教の神であり、イスラムの神でもあるのだ。
 神は与え、使い、取るもの。スズメ一匹ですら、神の許しがなければ死ぬことも出来ず、我々の髪の毛の本数ですら把握している。(マタイ10:29)
 私の事はさておき、キリスト教ではない、普通の日本人、かつて私がそうだったように、「カミサマ」というのは、苦しい時の神頼み程度の、神でしかないのだろうか。
 6ソー切りのリーチに3ソーを切る時の頼み、健康診断で尿酸値を計る時の頼み、シトロエンのエアコンのスイッチを入れる時の頼みだ。
 作品はそれを揶揄する。
 名曲「サウンド・オブ・サイレンス」の、ネオン・ゴッド・ゼイ・メイドだ。
 彼は自ら豆電球の後光を背負い、暗く怪しく光る「カミサマの光」を作り出す。
 あるいは、それでいいのかもしれない。ちょっとした心の救いで、教義も教会もなく、争いもない。
 そういえばジャン・ジャック・ルソーは心の中の教会、自然宗教、と言った(エミール)。
 おそらく世界の再認識と人生の意義の獲得を考えるに当たり、宗教的要素を取り入れる必要がないなら、大きな不幸もない日本人にはそれですら必要ないだろう。
 それは、サッカーの試合に出ない人には、スパイクが必要ないという意味だ。
 残念ながら、私程度では、信心・不信心の良し悪しについての答えは持ち合わせない。
 しかし、突然、不本意にでも、サッカーの試合に招聘された時には、スパイクの必要を感じるだろう。
 あるいはそれは、日本の土着信仰にいきつくのか。
 もっともそれも、中国からの輸入品なのか。
 近代的ビルを建てても祝詞を唱え、仏滅の日には結婚式がなく、霊だの前世だの、出典不詳の信心を持つ日本人、おそらく社会的慣例に対するインサイダー意識とマスメディア(あるいは都市伝説)への盲従こそ、無意識に引きずっている信心なのだろう。

今の課題「そろそろ墓の事も考える年という事です。」


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