私の場合、日本基督教団の中でもカルヴァン的考え方の信徒なので、一応「神」というものに対しては、思うところがある。
神とは、三位一体の神であり、アッバ(父)なる神であり、ヤハウェーであり、イエス・キリストでもある。
ちなみにそれは旧約の神でもあるので、ユダヤ教の神であり、イスラムの神でもあるのだ。
神は与え、使い、取るもの。スズメ一匹ですら、神の許しがなければ死ぬことも出来ず、我々の髪の毛の本数ですら把握している。(マタイ10:29)
私の事はさておき、キリスト教ではない、普通の日本人、かつて私がそうだったように、「カミサマ」というのは、苦しい時の神頼み程度の、神でしかないのだろうか。
6ソー切りのリーチに3ソーを切る時の頼み、健康診断で尿酸値を計る時の頼み、シトロエンのエアコンのスイッチを入れる時の頼みだ。
作品はそれを揶揄する。
名曲「サウンド・オブ・サイレンス」の、ネオン・ゴッド・ゼイ・メイドだ。
彼は自ら豆電球の後光を背負い、暗く怪しく光る「カミサマの光」を作り出す。
あるいは、それでいいのかもしれない。ちょっとした心の救いで、教義も教会もなく、争いもない。
そういえばジャン・ジャック・ルソーは心の中の教会、自然宗教、と言った(エミール)。
おそらく世界の再認識と人生の意義の獲得を考えるに当たり、宗教的要素を取り入れる必要がないなら、大きな不幸もない日本人にはそれですら必要ないだろう。
それは、サッカーの試合に出ない人には、スパイクが必要ないという意味だ。
残念ながら、私程度では、信心・不信心の良し悪しについての答えは持ち合わせない。
しかし、突然、不本意にでも、サッカーの試合に招聘された時には、スパイクの必要を感じるだろう。
あるいはそれは、日本の土着信仰にいきつくのか。
もっともそれも、中国からの輸入品なのか。
近代的ビルを建てても祝詞を唱え、仏滅の日には結婚式がなく、霊だの前世だの、出典不詳の信心を持つ日本人、おそらく社会的慣例に対するインサイダー意識とマスメディア(あるいは都市伝説)への盲従こそ、無意識に引きずっている信心なのだろう。
今の課題「そろそろ墓の事も考える年という事です。」