部屋の中、頭の中
ミニマリズムだけでなくとも、自己表現とは、中身の露出である。
芸術にあって、何を造るか、その元となるものは、自分以外の何物でもない。自分の心の中に深くある何かしらを、形あるものとして表現する、それが基本であることに間違いはない。
桝田さんの場合は、これなわけだ。
ゴミ袋(とは何ともシニカルだが)をつなぎ合わせた四角柱の中にバランスをもって吊るされているのは、愛用する家庭用品やそれを象徴するもの、左下の床にはゴザがひいてあって、そこにはりかちゃん人形とままごとセット。
私が新鮮に思うのは、この表現する中身が、とてもあまりにもストレートで、隠すところがないので、爽やかさをとっても感じるからだ。
同じ内面の出し方でも、この日記やブーツ番長などは、捻じ曲がって、愚かで、哀れでもある。
なぜか。
答えは簡単だ。人柄ですよ。結局のところ、作品は人である。そうなのだ。と痛感した。
レザー番長の「ちょっといいですか」
いきなり、不評の声も聞こえてくるが、ぶれない男としては、簡単にやめるわけにもいかない。
前前回あたりから、バックボーンという話をしている。自分らしさの基本となるのは、背景なのだ。この辺の田舎でも、ちょっと悪そうなお子様たちが、アメリカの下町の黒人のようなファッションをしている。しかしわたしにはまるでかっこいいとは思えない。なぜなら、完全なものまねだからだ。どうせラップも出来ず、英語すらしゃべれないだろうが、赤ら様に格好だけ真似ても、それがかっこいいわけはないのだ。
自分らしさとは。自分とは。いつもそう思いながらいてこそ、何事も表現しうるのだろう。