青空
宮崎アニメにおいて、雲の扱いは印象的だ。(いきなり変な話で恐縮だが、変な前ふりとして、もう少しお付き合い下さい)
雲描くというのは難しい。質感のあるもの、例えばハイジのように乗れてしまうように描くのも手法ではある。
実際ナウシカあたりまで、雲は触れると弾むような感覚があった。現実の雲はもちろんそんな事はないが、見た目に雲らしいということはある。
それが少し変わるのは紅豚あたりだろう。「また会おうぜアメリカ野郎」といいながら、雲の霧の中に消えていく。
実際はまだ雲の切れ目というのはあいまいだろうが、雲を描くのが難しいと言ったのは、その不鮮明な濃淡にある。
この展示では、まるでその問題が解決したかのように、雲の多面性を感じることが出来た。
奥には青地に白の入った雲らしい雲がきっちり張られたキャンバスに描かれている。横には白とグレーの濃淡のような枠のない絵。そして獏名物の白い箱。
その中に立つと、まるで化かされたかのように、五里霧中な気持になる。雲の中から空の切れ間を見るような感覚を、見事に展示で表現していたのでびっくりだった。
それはまるで、寂しくなるくらい。
もっともその寂しさも、「青空といえばバタイユ」というくらい、ひね曲がった自分に責任があることである。
作品のよさ、展示のすばらしさを痛感する個展。見事でした。
レザー番長の「ちょっといいですか」
今月号のサファリに珍しくいいことが書いてあった。「ファッション・セラピー」という2ページの記事である。確かに、ファッションとは、力を与えるものであり、自分を表わすものである。ついては、それがアートと同様に、表現と理解という両極を持つコミュニケーションと言えるわけだ。
それは既にオシャレではなく、第一印象でもない。昔風に言うなら記号であり、象徴である。
ファッションがその集合体であるなら、果たしてどのような組み合わせをもって、自分を見極められるのか。
少なくとも多面性のある個人ならば、ファッションにも多面性があるのは当然だろう。
しかし、その多面性の中にあるコア。写ろうものとその背景にあるもの。その辺の関係がむずがゆいところである。
とりあえず、少なくとも、それがオシャレでも、女子に受けないのも理解できた。