仙台、青森、そして再び仙台へ 
(生まれてから、小学校・中学校時代)

昭和33年2月、仙台市原町で長男(第二子)として産まれる。長女は2歳上の○○。

でんぐり返しを覚えた。
それが楽しくて、夕食時に危ないから止めなさいと忠告されたにもかかわらず、
得意げに何度もやっているうちに方向を間違え、味噌汁の鍋に背中を落とし、
父が大慌てで近くの病院に連れて行ってくれた。幸い大事に至らず、今でも火傷の跡はない。
夜に両親二人とも居なくなったため、まだ幼稚園児だった姉が一人で家に残され、
不安そうに帰りを待っていたと聞いている。

家の近所の友達と駆けっこリレーみたいのものでよく遊んでいた。
突き当たりの電信柱までダッシュしタッチして戻ってくるという他愛のないものだ。
当時はかなりの距離があるように思えたが、中学生になったとき、その場所を訪ねたら、
僅か10m程度の距離しかなく、時の流れを感じた。

小さい頃から食べ物の味にうるさい子供だった。
母の実家は味噌汁・叔母の家はおかずが美味しいなどとガキのくせに生意気なことを言っていた。
ちなみに父の実家の味付けが嫌いで、遊びに行くとよく蕎麦を出されたが、
蕎麦つゆの醤油の味がきつく好きではなかった。
くわえて、母の実家のある市の中心部と異なり名取郡という田舎の遠い場所にあったので、
一度中心部にバスで出てから再び別のバスに乗り換えねばならず、
時間がかかるため、行くのが嫌だった。
当時は道も舗装されているところがまだ少なかったため、
バスが揺れて車酔いしやすかったのも嫌いな理由だったと思う。
ただし、従兄弟や祖母は優しかった。
玄関から土間に上がっていく昔風の家作りの雰囲気も結構好きだった。
(当時はまだ馬がいた)
風呂が五右衛門風呂だったため、体が少しでも触れると火傷しそうで、
上手につかるのに神経を使った。

当時は、共稼ぎで母が仕事をしており、いわゆるカギっ子だった。
幼稚園の頃だと思うが、カギを忘れて玄関を開けられず、家をぐるりと一回りし、
裏のトイレの小さな窓から入ったことがある。
(今考えると、子供にしては結構機転の利いた対応をしたものだ)
その時、ぽちゃんと音がして、何かを便器に落とした。
今と違い汲み取り式トイレだったので、後で両親が帰って来てからそのことを伝え、
長い棒のようなものを使い、何とか引っ掛けて臭い思いをしながら拾い上げた。
あの時、落としたのは何だったのだろう? 未だに思い出せない。
かなり年月が経ってからそのトイレの窓を見たが、
よくこんな所を通れたものだと思うほどの小さい窓だった。

同じ頃だと思うが、建設省に勤務していた父が建てたという鳴子ダムを見に行った。
石碑の裏に父の名前が刻まれており、父に畏敬の念を抱いた思い出がある。

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