| 仙台、青森、そして再び仙台へ (生まれてから、小学校・中学校時代) |
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仙台市立原町小学校入学。 そろそろ夏休みに入ろうかという暑い日、帰宅途中から喉がとても乾いていた。 家に着くと、その渇きを知っていたかのようにテーブルに水の入ったコップが置いてある。 砂漠でようやくオアシスに出会ったような気分だった。 ランドセルを下ろし、駆け寄って、それを手にとりゴクゴクと飲み干したところ、むせかえり、一気に吐き出した。 水に見えた透明の液体。それはお酢だった。 それ以降、酢の味のついたものが一切食べられなくなった。 なんとか口を付けられるぐらいになるまでに、その後10年以上の月日がかかった。 未だに、何故あのときテーブルの上に酢を入れたコップが置いてあったのか分からない。 何のためのお酢だったのか、母に聞いてみたい。 10月、小学校に入学して半年で、父の転勤のため青森へ引っ越しすることになった。 当日が、東京オリンピックの開会式(10月10日)と同じ日だったのを鮮明に覚えている。 一戸建ての家から4戸並びの小さな官舎へ。 それでも2階が姉と私の共同部屋になり、2段ベッドを買ってもらい、私は上の段を取った。 梯子を伝って上に登ると、そこは自分だけの秘密の空間に感じられた。 新しい部屋での生活が楽しくなった。 その空間で、いつも「なぜだろう、なぜかしら」という科学の本をよく読んでいた。 青森は雪が多く、積もると1m近くにもなったので、玄関が開かずに私が2階から飛び降り、外に出て雪をかき出し、ドアを開けたこともある。 青森での最初の学校は石江小学校。 おんぼろの古くて汚い校舎で、担任の女教師はよく居眠りをしていた。 すぐに学校統合があって、少し遠いが、新築されたばかりの新城小学校に移ることになる。 雪の多い日は、小学校にスキーを履いて行ったこともある。 家のそばに丘のような傾斜地があり、簡単にスキーができたので、そこで友達とスキーをして遊んだ。 林の間をすり抜けたり、急坂を滑り降りたりと、かなりの上級スキーヤーだったはずだが、後に仙台に戻ってからは殆どスキーをする機会がなくなり、腕前は着実に衰えていった。 高校二年の冬だったろうか、学校のスキー教室があり、昔とった杵柄でそこそこ滑れるだろうとたかをくくり上級者コースを選択したが、10年近いブランクは想像以上に大きく、全く皆についていけなくて悔しい思いをした。 青森にいた当時は、その後スキーが日本中で大ブームになる時代が来るとは全く想像していなかった。 あのときしっかり覚えていれば、1980年代のバブルスキー大流行時代に得をしたのに、と悔やまれる。 雪が溶けて春になると、当時の男の子達にとって代表的なスポーツだった野球をして遊んだ。 日曜日になると父が近くの空き地に連れて行ってくれて、買ってもらったばかりの真新しいグローブでキャッチボールをした。 まだ覚えたての頃、父の投げた球が受け損ねた私の額を直撃し、父がとても心配したのを覚えている。 スポーツは、やるのも見るのも好きで、小学校低学年の頃は帰宅が早かったため、よく相撲を見ていた。 当時、呼び出しさんの背中に「なとり」という文字が書かれてあったが、何の意味か分からなかった。 |
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