| 仙台、青森、そして再び仙台へ (生まれてから、小学校・中学校時代) |
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約20年後、その会社の娘さんと出逢うことになるとは、当然のごとく、夢にも思わなかった。 日曜日は母・姉と一緒によくデパートへ行った。 屋上のスマートボールで遊んだことと、近くにおいしいうどんを売る店があり、そこで好物の玉うどんを買ってもらったことを覚えている。 繁華街から帰るときは駅から黒石行きのバスに乗るのだが、それに乗るといつも気分が悪くなった。 父が何処からかもらってきた牛乳瓶一杯に入った初めて食べた生うにが強烈に美味しくて、それ以来、鮨ネタといえばウニが一番のお気に入りになった。 もっとも、当時は高級だったお鮨を食べられるのは、特別なお客さんが来るとか、何かのイベントがあるとき(冠婚葬祭など)くらいで、滅多に食べられたわけではなかったが。 耳が弱かったのか、時々痛みを感じることがあり、頻繁に耳鼻科に通っていた。 耳鼻科の診察は気持ちの良いものではなく、特に鼻から金属の細い棒を入れられたときは、そのあまりの痛さに思わず涙がこぼれた。 小学校の運動会では、足があまり早くなかったので、いつも後ろの方を走っていた。 座席は、○○○○という苗字のために、常に教壇に向かって左端の一番前か二番目。 その席は、窓際で太陽の光が射し込み、気分がよく外の景色が見える場所だったので、柔らかい陽射しを感じながら、外をぼうっと見ているのが好きだった。 自転車を覚えた。 当時の小学生には必需品。 あまり見た目のよい自転車ではなかったが、買ってもらったときはとてもうれしかった。 その自転車で国道4号線を走っていたとき、危うく大きなバスと接触しそうになった。 一つ間違うと大事故になっていたはずだ。 家に帰りその事を話すと、 「それはお守りが助けてくれたんだ。お守りどうなっている?」 と父から訊かれたので、 いつも財布に入れていたお守りをポケットから出すと何故か割れていた。 本当にお守りが助けてくれたのだろうか? 今でも不思議だ。 冬には、八甲田山スキー場や酸ケ湯温泉に連れていってもらった。 青函連絡船に乗って函館にも旅行に行った。 当時流行っていた北島三郎の真似をして、 「はーるばるきたぜ、はーこだてー」と船の中で人目を気にせずに歌った記憶がある。 父はやはり子煩悩だったのだろう。 省みると、私は子供のために何をしてあげられたのだろうか。 確かに二人が小さかった頃、休みの日に公園へ連れていくのは私の役目であり、三人で遊ぶのはとても楽しかった。 砂場で、3歳ぐらいだった長男に他の子供が近寄ってきたりすると、喧嘩にならないだろうかと気を揉んだものだ。 長女が3~4歳の頃、公園に連れていき、そこにいた二人の小学生の女の子に 「この子可愛いね。一緒に遊んでもいい?」と訊かれ、 「いいよ、遊んでくれるの?」と答えて、 長女がその子たちに楽しく遊んでもらっているのを見てとても幸せだったが……。 |
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