第三章  
淡く切ない、小さな恋の物語
(榴ケ岡高校1年時代~)

一女の文化祭当日、生まれて初めてその門をくぐったときは感無量だった。

ここに彼女がいる。間違いなくいる。そして、その場所は天文部……。
Kから、彼女が高校でも天文部に入ったらしいという機密情報はすでに入手していたのだ。
ここまでくると、まるでCIAかKGB、或いは007の所属するMI6の秘密諜報員のようだ。
ただし、この門の中にいるのは憧れの彼女だけではない。
勝手に手紙に名前を出してしまった台中の○さんもいる。

期待と恐れが複雑に交錯しながらも、隣を歩く友人に怪しまれないように、入り口で受け取ったパンフレットを見ながら、天文部がイベントを行っている場所を秘かに探した。
けしてその前に○さんや○さんに会わないようにと神様にお祈りしながら。
なんと言っても、こちらにはイエス様がついているはずだ。
だってキリスト教の高校なのだから(笑)。
そんな無茶な論理を”錦の御旗”として掲げ、私たちは校内を歩き回った。
そして、ついに天文部を見つけ出したのである。

「天文部だってさ、ちょっと入ってみようぜ」
友人には、偶然ちょっと面白そうな場所があったかのように言いながら、半ば強引に、でも恐る恐る、その教室のドアを開けた。
受付係らしき女の子が机を前にして坐っていた。
「いらっしゃいませ、天文部です。プラネタリウムをやっていますので、ぜひご覧ください」
頭のよさそうなハキハキとした言葉で迎え入れられた。
中に入ると、彼女に「ここにお名前と学校名を書いていただけますか」と促された。
学校名と言われて少し怯んだが、友人と二人で名前と学校名を書き始めた。
ペンを走らせながら、受付の子の顔をちらっと覗き見た。
(うん、この子ではない)
私は安堵した。
つまり、会いたくて行ったものの、実は心臓の鼓動がバクバク聞こえるほど緊張していたのだ。
あんな手紙を能天気に出したせいで……。
手紙など出さずに、じっと文化祭まで待って、そこで初めて彼女に会って話かけたほうがどんなに楽だったろう。

そして、ついに運命のときが来る。
私たちがそれぞれ書き終わると、彼女が叫んだ。
「Sさーん。お二人案内して」
(えっ、S? S? S?)間違いなく私の耳に飛び込んできたのはあのSという苗字だった。
ただし、まだ本人かどうか分からない。
Sなんて苗字は日本中に腐るほど、仙台にだって唸るほど、一女にだって他人に売るほどいるはずだから。
でも、天文部なのだよね、ここは。

教室の奥の方にいたのだろう。
Sさんと呼ばれた子が近づいてきた、白衣を着て。
天文部というのは白衣を着るのか?
胸の高鳴りを抑えながら、彼女の顔を見つめた。
眩しかった。間違いなかった。
私の前に立ったその子は、まさに白衣の天使。
まぎれもなく、あのアルバムになんとも可愛らしく映っていたSさんだった。

(これを書いていたら、今(正確には2011年1月26日午後3時15分、東京女子医大病院のベッドで)本当に思い出した。
Sというのは、忘れてしまい名前が思い浮かばなかったので、とりあえず適当に作ったイニシャルだったのだが、苗字は確かに鈴木だった!! しかも下の名前まで思い出した!!

恐ろしい。偶然の一致か、それとも37年前の微かな記憶が残っていたのか。どちらにしてもすごいことだ。
37年経った今、同学年だから私と同い年で52歳か、53歳のおそらくオバサンになってしまったはずの鈴木さんは今どうしているのだろう。
ということで、ここからはSさんを鈴木さんと書くことにする。

受付の子が「鈴木さん、じゃあ説明お願いね」と言うと、彼女は「はい」とだけ答えた。
私は、受付の子が私たちの学校名や名前を教えるのではないかとひやひやしていたので、二人の会話がそれだけで終わったことに、ひとまずほっと胸をなでおろした。
鈴木さんは「どうぞ中に入ってください」と普通に、ごく普通に私たちをミニプラネタリウムの中に案内してくれた。
私と友人の二人はロングソファーに坐らされ、一方の彼女は立ったままで、星の話を始めた。

この暗くて小さなプラネタリウムの中にいるのは私と友人(彼は余計だが)、そして鈴木さんだけ。
夢のような時間だった。
彼女の声は透き通るように美しく、すぐ隣にいる私に漂ってくる香りは爽やかで、仄暗い中でも白衣の下から微かに覗く膝下はカモシカのように細くて優雅だった。

プラネタリウムの中でいくつか質問や会話が交わされた。
彼女は私たちが何年生か分からなかったせいか、丁寧な言葉使いで受け答えしてくれた。
もう、それだけで充分だった。
彼女は私に気づいていないし、告白する勇気など、あまりの可愛らしさに圧倒され、小さくしぼんでしまっていた。
会えただけで良かった。声が聞けただけでも嬉しかった。
10分ほどで彼女の説明が終わり、私たち3人は再びプラネタリウムから外に出た。
ところがここで友人が、予想もしなかった余計な一言を放った。

「鈴木さんって中学校は五橋でしょ?」
「え……? そうですけど、どうして知ってるんですか」
彼女は驚き、というより戸惑いに近い表情で、首を軽く左右に振りながら私たちを交互に見た。
「僕ら榴ケ岡の1年なんだけど、鈴木さん、中三のときKと同じクラスだったでしょ?」
「K君……。ああ、うん」
私たちも彼女と同じ1年生ということで楽になったのだろう、それまでの丁寧な口調から普通の喋り方になった。
彼女は友人の言葉の意味を図ろうとしたのか、もう一度私たち二人を怪訝な目で見ると、忘れていた何かを突然思い出したように、その凛とした瞳が、私だけを射抜いた。

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