日本文化の起源はどこまで遡(さかのぼ)るのか、それは研究者のみならず
多くの人たちの興味があるところです。
その意味で、日本史の第一頁を書き換えた「岩宿の発見」が、地元の研究者である
相沢忠洋氏によってなされたということは、すばらしいことではないでしょうか
昭和21年の秋、稲荷山、琴平山丘陵の鞍部を横切る村道を歩いていた一人の青年
(相沢氏)が、丘陵の切り通された石土の崖で数個の石片を採集しました。
彼は考古学を研究しており、当時日本における最古の文化とされていた縄文文化の
起源について、大変な興味を持っていました。この時彼は、これらの石器がどのような
縄文土器に伴うものなのか考えていましたが、その後数年間の綿密な観察の結果、
これらの石器がこれまで知られている縄文時代の石器と異なった特徴をもつことや、
発見される場所がどうやら関東ローム層と呼ばれる赤土の中からであるらしいこと
などの事実をつかみました。
縄文時代の遺物は、関東ローム層の上に堆積した黒色土の中から出てくる。
さらにこの関東ローム層と呼ばれる赤土は、約10,000年前より以前の火山の噴火に
よって堆積した火山灰であり、その当時は火山の活動が激しく人類の住めるような
環境ではない。したがってローム層の中から人類文化の痕跡を持つ遺物が発見される
わけがないと、このころの多くの研究者は考えていたのです。
しかし、彼はこのような既成の概念にはとらわれず、自分で確かめた事実を信じ、
採集した石器類は明らかに赤土の中から出土したということを確信したのです。
昭和24年7月、上京した相沢氏よりこの事実を聞いた芹沢長介氏は、ことの
重大さを直感し、すぐに杉原荘介氏(当時明治大学助教授)に連絡しました。
こうして同年9月、明治大学考古学研究室による岩宿遺跡の学術調査が行われること
になりました。そしてこの事は、同時に日本における本格的な旧石器文化研究の
幕開けともなったわけです。
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昭和24年の明治大学考古学研究室(杉原荘介氏)による調査は、 9月の予備調査と10月の本調査との2回行われました。
村道を挟んで北の稲荷山側はA地点(左写真)と命名され、 調査において関東ローム層中より上下2枚の文化層が確認されました。 下層の黒色帯より発見された石斧、ナイフ形石器を主体とした石器群を岩宿T石器文化、 上層のナイフ形石器や尖頭様石器を中心とした石器群を岩宿U石器文化と呼んでいます。
A地点と村道を挟んで南側のB地点は、相沢氏が石器類を最初に採集した場所ですが、 調査では石片が1個発見されただけでした。
A地点より北西に100m程離れたC地点では、当時最古の文化とみられていた縄文文化の 撚糸文土器群が黒色土層中より発見され、関東ローム層中からの遺物の出土はありませんでした。 しかし、この事実によってA地点出土の石器群の性格が、層位的により明らかになったことは重要です。
その後、昭和45年・46年に至って、東北大学考古学研究室(芹沢長介氏)により、 2度に亙る発掘調査が行われました。これらの調査の目的は、岩宿T石器文化より古い石器群の確認にあり、 B地点、C地点の2ヵ所と新たにD地点とを設定して進められました。
その結果、岩宿ゼロ文化と命名されたいわゆる「珪岩製旧石器」群が発見されたわけですが、 これらの資料の評価については問題視する意見も出され、現在学会でも論争中です。
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昭和54年8月、国指定史跡となった岩宿遺跡は、 町が中心となり関係機関と協力し保存整備が進められました。
特にB地点(左写真・B地点遺構保護観察施設)の保存修理事業を始める際に、 隣接して駐車場整備(昭和62年度)を行いましたが、そこでは岩宿遺跡に関連した 新たな発見がありました。
昭和62年7月から駐車場整備に先立ち、予定地の発掘調査が笠懸町教育委員会によって行われました。
調査地点はB地点から東南方向へとゆるやかに下る傾斜地であり、地表には縄文土器片などが見られました。 調査が進むにつれて縄文時代の落とし穴が発見されるなど、多くの成果がありましたが、 特に注目されるべきことは関東ローム層中からの石器の出土です。
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(左写真・B地点遺構保護観察施設入口)
明治大学が発掘調査を行ったときに発見された石器群と層位的な比較を行うのはむずかしいですが、 岩宿U石器文化に近い時期の石器群が中心で、遺物の集中分布地点が3ヵ所で200点近い数の石器が出土しています。 さらに下層からは岩宿T石器文化に近い時期の石器群が20点余出土し、 これまで発見されている石器群の追加資料として貴重なものとなりました。
今回の発見で重要なことは、遺物の分布が平面的に確認されたことです。 このことは遺跡の広がりと言うことだけでなく、遺跡の構造という、 つまりは当時の人々の生活状況を推定する手がかりともなるわけです。
昭和24年の日本で初めての旧石器時代(岩宿時代)遺跡の発掘調査から今日まで、 発掘調査の技術や方法論は目覚ましい進歩があります。 そして、岩宿遺跡もまた新資料の追加によって研究課題が進展しそうです。
岩宿遺跡の発見を契機として今日に至るまで、岩宿時代の遺跡数は爆発的に増加し、 その数は数千ヵ所を超えるとも言われています。その意味でも岩宿遺跡の発見は、 単に新しい遺跡が発見されたと言うだけでなく、関東ローム層形成期における人類の存在を立証し、 その後の岩宿時代文化研究の指針ともなっているわけです。
この岩宿遺跡の保存整備は緑におおわれた2つの丘陵と、丘陵の西側に位置する鹿の川沼とを含め、 調和のとれた美しい自然を今後の新しい町づくりにどう生かしていくかが大きな課題と言えましょう。 歴史を学ぶために訪れる多くの人たちのため、また日本を代表する史跡としてそれにふさわしく、 さらに笠懸町のシンボルとして長く未来への遺産として、私たち祖先のかけがいのない文化遺産である 遺跡を保存していくのは、現在に生きる私たちの義務ではないでしょうか。
■ 笠懸野岩宿文化資料館のご案内
入場料(お一人につき)
個 人 団体(20名以上)一般 500円 400円 高校生 300円 240円 小・中学生 200円 100円
開館時間/午前9時30から午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日/毎週月曜日(祝日と重なる場合は翌日)12月27日から1月5日
■ 遺構保護観察施設は無料で見学できます。
■ 相沢忠洋記念館のご案内
入場料(お一人につき)団体見学の場合は事前にご連絡いただけると幸いです。
個 人 団体(20名以上)大人(高校生以上) 500円 400円 小人(小中学生) 300円 250円 小学生以下 無料
開館時間/午前10時から午後5時(閉館5時30分)
休館日/月曜日
住所 群馬県勢多郡新里村奥沢537
電話 0277−74−3342 FAX 0277−74−3350
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