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マルコの生涯

新約福音書の最初の書き手マルコの姿を追跡した


はじめに

私は聖書を教会の聖典としてではなく、歴史古書として読みたい方々に新約では「マルコ福音書」を一気に読み通す事をお勧めしています。
実は自分自身が聖書を読むようになったきっかけが、このマルコ福音書の読み通しに始まった経験から、人にも薦めるのですが、その経緯はさほど大した理由もなく、福音書の中で一番短くて(新共同約で約40頁)一気に読めそうだっただけの事です
その後いろいろな解説書で、マルコ福音書が幾つかある福音書の中で最初に完成したものであるとか、その後のマタイ福音書やルカ福音書もマタイ福音書を参考にしたのだろうと言う説明から、尚更それなら暗記するくらい読んで、イエス・キリストのストーリを覚え込んでしまい、「私は敬虔なクリスチャンです、貴方を神の御心に導きます」と言う尊大極まりない態度にでる人達が、その実はロクに聖書を読んでない事は、明々白白なのがわかっていましたので、「あなた方はまともに聖書を読んでるのですか?」「イエスが本当に言いたかった事はそんな事じゃないよ」「ヤハヴェの神がいかにデタラメな神様かご存じですか?」と言い返したい不純?な動機からである事を正直に告白します
事実、例えばマルコ福音書7/18−23のイエスの言葉は、教団以外の人達との接触や書物を読む事を制限している教団の人達を痛烈に批判しているようにも読めて非常に説得力があります。
このページは、幸いにしてあまり教会からの教育が少なく、歴史古書として聖書に興味を持っている方々にマルコ福音書を読む時の参考にしてもらえれば幸いです。

マルコはどんな人

聖書の書き手が聖書自体に登場する事は極めて希な事で、使徒言行録12/25に登場するマルコは異例中の異例でしょう。
マルコが登場する前からの経緯を少し整理してみましょう
AD30年頃に師匠イエスを失った、使徒達・イエスの兄弟達・イエスの親族達は程なくエルサレムに終結し、エルサレム教会を設立します。「使徒言行録1/12−16」
当初はペテロをリーダーとして宣教活動をし信者が増えていきますが、それに伴い次第に官憲の弾圧がはじまり、ステファノ処刑・ヤコブ(ヨハネの弟)の処刑・ペテロ投獄脱走となり多くの信者はエルサレムから追放されます。
エルサレム教会の宗主は実質的にイエスの弟のヤコブが預かり、ペテロや使徒達は黒幕としてエルサレム周辺を宣教していったと思われます。
ペテロが脱走した時に最初に駆け込んだのが、マルコの母親のマリアさんの家「使徒言行録12/12」であり、そこに多くの信者がいて、ペテロは脱走できた事をヤコブ達に伝えるように託して、さらに遠方に脱走しています
マルコさんも近くにいたのでしょう、彼の出身地は解りませんが、このころはエルサレムにおり、当然エルサレム教会の信者だったと思います。
パウロは最初エルサレム教会を弾圧する立場にいましたが、有名なダマスコでの改心「使徒言行録9/1−18」で、思想的に変心し3年程アラビアに退いたりダマスコに戻った後、勇をおこしてエルサレムの使徒達に会いに行きましたが、使徒達には会えず(皆逃亡の旅に出ていたのか?)ヤコブに接触しました「ガラティア書簡1/11−24」、ヤコブ達はバルナバの仲介もあって、パウロを使徒の仲間に加えました「使徒言行録9/26−31」
先の弾圧で地方に散らばった信者達は各地で宣教を行い、とりわけアンティオキアではギリシャ語を話す人々にも宣教されて、信者の数が増え、エルサレム教会は設立当初からの有力な宣教師であり、キプロス出身でギリシャ語の堪能なバルナバを派遣し、バルナバはタルソスに篭っていたパウロをアンティオキアに連れ出し、アンティオキアはこの2人により、とりわけ異邦人宣教の前線基地となったのでしょう。
実はマルコはこのバルナバの従兄弟であって「コロサイ書簡4/10」、パウロとバルナバがエルサレムに援助品を携えて行った帰りに、バルナバ達と一緒にアンティオキアへ同行しています。
パウロ・バルナバに仲間入りしたマルコは、彼らと第1回ヨーロッパ宣教の旅に出ますが、途中で恐れをなしたか、エルサレムに帰ってしまいました「使徒言行録13/13」
実はこの戦線離脱をパウロは根に持ち、第2回ヨーロッパ宣教の時にマルコを連れて行きたいとするバルナバと根性なしのマルコは連れて行きたくないとするパウロの間の意見衝突になり、結局バルナバはマルコとパウロはシラスの2組に分かれて宣教しています「使徒言行録15/36−41」。
この後については、パウロは続いて第2回と同じコースを宣教し、その後エルサレムで拘束されカリサリアで投獄されて、ローマへ護送された事が記録されており、使徒言行録の著者ルカも同行しているのですが、マルコについての言及が少なく動向はつかめませんが、ピレモン書簡1/24で、ルカとともに同労者(仲間)として呼ばれており、この書簡はおそらくパウロのカイサリアでの獄中書簡であるため少なくともAD55年以降も、アンティオキア周辺でバルナバと伴に宣教活動を続けたのでしょう
マルコ福音書はこの宣教活動の中で書き上げたものでしょうか、マルコもかなりギリシャ語が堪能だったの事が推測されます

マルコ福音書の研究

近代聖書研究者は、押し並べてマルコ福音書が最古の福音書だろうと言う事で意見が一致しています。
しかし、どうも現在われわれが読んでいるマルコ福音書は、マルコが書いた巻き物に、幾つかの改筆があるようです、もっとも論議されてるのが16/9からの最終章のところでしょう。詳細は佐倉哲殿の--- なぜマルコ伝の最終章が信頼できないか --- を参照してください、私の個人的な意見としては、この部分はマルコがイエスの権現を信じていなかった為に、16/8で終了したものが、後世の宗教学者がイエスの復活・権現を主張する為に、マタイ福音書やルカ福音書を参考にして、付け加えた様な気がしています。
マルコ福音書には写本も多く、例えば2/13−17で、イエスはアルファイの子レビが収税所にいて弟子にするのですが、写本の中にはアルファイの子ヤコブになってる物が多く、コピーストたちは、「アルファイの子の使徒と言えばヤコブのはずだし、マルコさんは勘違いしたんじゃないか...」と思ったのでしょう、ルカ福音書ではこの部分を「レビと言う徴税人...ルカ福音書5/27」にしているし、マタイ福音書では「マタイと言う人が収税所に座って...マタイ福音書9/9」としさらに12人使徒任命の所でわざわざ「徴税人のマタイ...マタイ福音書10/3」としていて、徴税人が12人使徒の1人であるとしています。
この様な福音書の間の食い違いはたくさん見受けられ、原マルコ(マルコさんの直筆巻き物)は、その後の各福音書編者によって、それぞれの福音書で社会的背景の違いもあって違う内容で反映し、原マルコも改筆され現在のマルコ福音書になったのでしょう
マルコ福音書の成立年代はAD60年前後とされています
マルコはアンティオキア周辺で原マルコの巻き物を書いたと思います、原マルコは写本形式で各教会に配布され、それで同じくアンティオキア周辺で、バルナバを継承したマタイ教派と呼ばれる教会に引き継がれ、マタイ福音書が完成したのでしょう、一方パウロに同行していたルカも写本を見てルカ福音書・使徒言行録に引き継がれたのだろう。
原マルコを推測すると、マルコはもしかするとイエスの復活を信じていなかったのかもしれませんが、それから数十年後の福音書ではイエス・キリストとしての復活がメインのテーマとなっており、パウロ書簡の普及によって原罪論からくるイエス・キリストの復活との整合がなされたのかもしれない。
現在の聖書学会では原マルコの研究よりも盛んに研究されているのが「Q史料」の研究です、私のWEBにもバートン・L・マック氏のQ史料を載せていますので参照してください。
マタイ・ルカ福音書は原マルコと共に「Q史料」が取り上げられ、それぞれの福音書に反映されたと思います


とりあえず終わりです