ルカの視座

新約聖書最大級の書き手ルカの姿を追跡した

序文

新約聖書のある人の作品を通して読むと、それまでに聞いたどこかの教会の人の説法と全く違う印象を受ける事がよくある。
その多くは
1...聖書が非常に簡潔にまとめられた書物である事
2...人物についてのイメージが予め描いていたものとかなり違ってくる事
3...福音書や書簡のいくつかの部分が書き手により違っている事
ルカ文書においては、特にその印象が強かった。のっけからテオフィロと言うローマ帝国の高級官僚への献上品であることが示されていて当時の教会が政府との密接な繋がりがうかがえたり、イエスが弟子にした徴税人はレビと言う名前であり、12使徒のマタイとは関連していなく、使徒マタイが徴税人かどうか不明である事、イエス処刑の際にピラトウス(ローマ帝国の代官)が終始イエスを助命しようとした様子、罪の女(売春婦)と七つの悪霊にとりつかれたマグラレーネ・マリアが別人と思われる事、使徒言行録からユダの死因が自殺とは考えにくい事、イエスの教えを継承し使徒達が作ったのはエルサレム教会と呼ばれるものであり、少しの間ペテロがリーダを行い、やがてイエスの弟のヤコブが約30年間指導的立場をしていて、パウロ達に異邦人宣教を奨励し、異邦人が割礼をしない事を容認している事など例をあげればきりがない
「ルカ福音書 1:1−5」
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。
そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
ルカは福音書を書く動機や手法を簡潔に説明しており、その成果物をテオフィロ(多分ローマ帝国の高官で、ルカの居た地域を取り仕切っていた)と言う人物に献上している。
「使徒言行録 1:1−2」
テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
{余談}私は教会の人から使徒言行録がルカの執筆である事を、一度も聞いていませんでした。

新約聖書でルカの名前が出てくる文書は、僅かにコロサイ(4:14)・2テモテ(4:11)・ピレモ(1:24)の3つのパウロの名前による書簡だけであり、コロサイ書簡では医師とされている。
ルカは使徒言行録(16−10)からミシア州トロアスからパウロ達に同行(第2回宣教旅行)している様で、この地域の出身の様に思われる。
またパウロ書簡やマタイ福音書程にはユダヤ教に詳しくなく、ユダヤ人の血は薄いと思われる。
パウロ達はこの2回目宣教のリストラ滞在で、父親がギリシャ人で母親がユダヤ人信者であるテモテを弟子としているが、ルカも同じ様な状況の生い立ちだったのだろうか
ルカ福音書で他にも福音書を書いている人がいる事を説明しているが、原マルコやマタイ福音書を編集している人達(もしかしたらヨハネ福音書やトマス言行録の編集者も)の事だろう、使徒言行録で他にも登場する人物を詰めていけば、マタイ福音書を編集した人達やその場所を想定できるかもしれなく、筆者はバルナバの流れを汲む人達ではないかと想定している。

ルカ福音書(以下福音書と略す)と使徒言行録(以下言行録と略す)は、同時並行で資料収集・事情聴取を積み重ね、続けて編集していったのでしょう。
資料収集で集められた物は一般的にQ資料と呼ばれる物であり、事情聴取の相手は主にユダヤ系の信者であろう。
福音書編集では、先に完成していたと思われる原マルコをたたき台として、言行録はエルサレム教会成立から始まり、やがてパウロ達による異邦人宣教を編集している。
エルサレム教会の様子やエルサレム会議を調べられるのは、この使徒言行録とパウロの幾つかの自筆書簡だけであり、この部分を丹念に読むとキリスト教会の説明とは大きく違う印象を持ったと言うより、イエスの弟子達が作ったエルサレム教会には福音書を創る背景は見出せない、少なくともパウロ達が積極的に異邦人宣教するまでは、パウロの言う人類の贖罪としてのイエス・キリストの概念は全く無く、パウロが異邦人宣教をする中で独自に極めた境地と考えたい

編集年代は、ユダヤ戦争(AD68〜73)の後(ルカはエルサレム会議の後の西アジア宣教の頃からパウロに同行しており、この頃にパウログループが福音書作製の起草をしていれば、パウロはペテロとAD49頃アンティオキアで接触しているし、その後の第3回エルサレム訪問の時に弟のヤコブと接触しているので、イエスやペテロや他の登場人物についてより確かな情報を得ていたはずである、福音書はこのパウロ宣教によって一般大衆に支持を受け始めた頃にその教育文書としての要請から成立したものと考えられ、原マルコにその起源を求めるべきか)で、AD80〜90年には完成していたと思われる。

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使徒言行録は、5/36−5/37でテウダの反乱(AD44頃)とユダの反乱(AD6頃)の記事を扱っているが、実際の事件の起こった時期を、勘違いしている。
この勘違いは、ヨゼフスの「ユダヤ古代史」の20巻の影響と思われる。つまりルカは古代史を読んだと思われ、古代史が発巻されたAD90年以降と思われる。

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編集場所は北シリアからギリシャにかけてと思われる、言語はもちろんギリシャ語だ。

ルカ文書はなぜ、ローマ帝国の高官に献上されたのだろう。
ローマ帝国から見たユダヤ人とはどんな存在だったのか考えてみたい、その他の地域には無い頑なな一神教(ユダヤ教)を信じ、神の掟である律法を厳格に守っていて、恐らくローマ人とは随所で反目していただろう。
イスラエル国内ではローマに反目する過激なグループが、ユダヤの神様(ヤハヴェ)をかかげて熱心党として反政府ゲリラ的な活動をしていて、AD65年頃のローマ市での大火の犯人がキリスト教徒の仕業として、(かなりはネロのたくらみの様ですが)キリスト教徒に過酷な弾圧を加えた話は有名で、パウロは殉教したとされているのだが、ローマ政府はキリスト教をユダヤ教の一派程度に理解していた様だ。
イスラエル戦争は、反ローマを掲げる熱心党に一般ユダヤ教徒達も合流し無政府状態になった事から、反政府ゲリラを鎮圧する為にシリア駐留の軍隊が出動し、神殿を破壊しユダヤ人をエルサレムから追い出した。
従ってパウロ達によって広められたキリスト教は、民衆には広く受け入れられたにもかかわらず、統治者レベルではユダヤ教との確執が前提にあり、ユダヤ人が多くいるキリスト教を簡単に容認できなかった物と思われる

そこでルカとテオフィロは次の様なやり取りをしたのではないか
テオフィロ:
「お前達はさかんにイエス・キリストと言うが、それはユダヤ人達の神様か、あの暴動を引き起こした連中が信じていた神様か、御前達はあの連中の仲間じゃないのか」
ルカ:
「とんでもありません、イエス・キリストは私達クリスチャンの罪の購いです、クリスチャンには確かにユダヤ出身の者が多く、以前は彼らとも面識があった者も多くいますが、今はユダヤの古い習慣を捨て、ローマ皇帝を尊敬し、あらゆる人達と生活を共にしています」
「テオフィロ様、私たちクリスチャンがどの様な物であるか巻物にしたため献上したく存じます」
「福音書 1:1−5」
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。
そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
ルカが文書を書いた大きな役目として、ローマ帝国なりそれぞれの地域の支配者にキリスト教徒の立場を理解してもらう事が、あったのだと思う。
それがゆえに、他の書き手と違って(マルコやマタイは信者に対しての教科書として書いたのだろう)、使徒言行録をも同時に書いて十字架以降、自分たちがどういう経過でイエス・キリストを信じる様になったか、暴動を起こした連中と自分達の関わりがどんな事であったかを説明したのではないだろうか


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言行録