●児童文学散歩 寄り道 番外編 ●

宮沢賢治は武井武雄のファンであったか?
『茨海小学校』の〈画家のたけしさん〉の謎

 宮沢賢治の本郷の散歩ガイドを書くにあたって、持っている資料を引っ張り出してみていたら、以下のような一文が載っていた。

 「農学校時代教論時代の創作とみられる『茨海小学校』のなかに、〈幼年画報にゐたたけしといふ人〉とある。『幼年画報』(1906〜1936、博文館)に〈画家のたけしさん〉が〈狐小学校のスケッチ〉をかいていたかどうか、未調査である。だが、このたけしさんは、絵雑誌「コドモノクニ」(1922.1〜1944.3)にかかわりの深い武井武雄のことをふまえているとおもわれる。……」(「賢治童話と先行文学」続橋達雄、『国文学 解釈と鑑賞』昭和59年11月号より)

 宮沢賢治武井武雄の間にそんな接点があったなんて……。しかし、大正児童文学研究に明るい続橋先生がそうおっしゃっているのである。
 また、1923(大正12)年1月に弟・清六を訪ねた賢治がトランクに詰めた童話の原稿を婦人画報と『コドモノクニ』を発行している東京社へ持参するように言った、と『校本全集』に記されていることも、賢治が武井武雄の絵に心魅かれて注目していたということの裏付けになるのではないかと、続橋氏は指摘していた。
 続橋氏はこの記事を書いた後もこの件を調べておられたようだが、平成8年11月号の『国文学 解釈と鑑賞』の記事「茨海小学校」では、幼年画報に狐小学校のようなスケッチがあったかどうか「今のわたしには不明」で、狐の名前に〈武田〉〈武村〉と「武」の字が使われているため〈たけしさん〉は『注文の多い料理店』の装幀挿画をした菊地武雄あるいは武井武雄を連想させる、というだけにとどまっている。うーん。しかし武井武雄であるという説は今だ確証がないもののはっきり打ち消されたわけではない。

 『茨海小学校』は、狐小学校に主人公が火山弾を寄付する話である。狐小学校へ迷いこんだ主人公は、狐の先生に見つかって授業参観に来たのなら、紹介状は持っているかと問われる。そこで主人公は次のように答えるのだ。

 私はふと、いつか幼年画報に出てゐたたけしといふ人の狐小学校のスケッチを思ひ出しました。
 「画家のたけしさんです。」
 「紹介状はお持ちですか。」
 「紹介状はありませんがたけしさんは、今はずゐぶん偉いですよ。美術学院の会員さんですよ。」

 続橋氏も示していることだが、『茨海小学校』の狐たちはみなおしゃれである。狐の生徒は青い格子縞の短い上着やチョッキを着ていたり、校長先生は涼しそうな麻のつめえり。まるで、武井武雄の絵のようではないですか。『イソップものがたり』(楠山正雄編・冨山房、大正14年)でも、武井は上着を着て蝶ネクタイをしめているキツネを描いていたりする。
 武井武雄の絵に出てくる人物や動物は、武井の当時の生活そのものがモダンであったためか(素敵な洋館に住んでいたり、自転車を乗り回したりしていた)、本当にあかぬ けていて、お洒落である。「あるき太郎」なんぞはフランス映画から抜け出してきたような服を着ていたりするのだ。あの都会的な香りのする絵が、洒落者であった賢治の心をくすぐったということはないだろうか。

 武井武雄は宮沢賢治より、3つ年上になる。賢治が突然東京へ出てきたのは、25歳、1921(大正10)年のこと。武井武雄が婦人画報の目次カットや童話の挿絵を描きはじめたのが、28歳、1922(大正11)年である。
 武井武雄はその後、童話雑誌をはじめ婦人誌、明治製菓の広報誌にまで次々に童画を描き、さらには童話や詩の創作、イルフトイスの制作等々、華々しく活躍しはじめる。
 清六氏がコドモノクニに賢治の原稿を持っていったときに、他の担当者が応対して認められていたら、もしかすると、武井武雄が描くポラーノの広場やばけもの世界や、あるき太郎の目をしたカンパネルラが見れたかもしれないのに……。いや、ぜひ見てみたかった。

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