9つのお話を含むどこか風変わりな短篇集。
「めいわくな贈りもの」
マチルダの誕生日にはいつも、遠くにいるガーティおばさんからお祝いの詩が送られてくる。その詩に込められているおばさんの願いは、必ず本当になってしまうので、マチルダは毎年困った目に遭い続ける。
「オウムになった海賊と王女さま」
意地悪な妖精がへそを曲げて、生まれたばかりの赤ん坊王女さまをオウムに変えてしまう。オウムは海賊船に乗っていっぱしの海賊らしく育つが、またもや妖精の魔法で元の王女さまに戻ってしまう。でも王女さまはすっかり海賊風に育ってしまっていた。
「魔法のアイロン」
親切にしてあげたおばあさんに宝くじの当たり券を教えてもらって魔法のアイロンを引き当てたジョン。母ちゃんがアイロンをあてた布はみんな絹に変わり、もう一度あてるとそれはみんな金に変わる。
「料理番になった王女さま」
グリセルダ王女は妖精の呪いでみっともない顔にされてしまうが、「(グリセルダの)幸運は本(ブック)の中に見つかる」と予言をもらう。心配した王様にさんざん学問を詰め込まれるが、大きくなったグリセルダは料理番(コック)になりたいという。魔法で連れて行かれた砂漠で竜に出会い、料理の本を読んで聞かせたうえ、竜の魔法を解いてしまう。
「腕のいい庭師のお話」
動物の言葉がわかるカッサンドラは、その力によって、友だちのエルフィンストーン卿から盗まれた銀器を見つけるが、卿にとびきりの庭師を世話することになる。
「失業した音楽師たち」
ブレーメンの音楽隊のメンバーたちはあれから森の家に住んでいたが、そのうち寂しくなったので、近くの村の水車小屋に引っ越すことにした。彼らはそれぞれに仕事を見つけるが、あるとき泥棒扱いされてしまう。
「一晩じゅう立っていた王さま」
若い王さまの戴冠式の前の晩、人々は一晩中お城の前で戴冠式の始まるのを待っている。人々が自分を見るためだけに寒いところに一晩立っているのなら、宮殿の中の人間も一晩立っていなけりゃ悪いじゃないか、と思った王さまは、そっとお城を出て焼き栗売りのおじいさんと一晩話し込んでしまう。
「ふしぎなレコード」
アーミンが買った掘り出し物のレコードは、蓄音機にかけると彼女に夢のような風景を見せてくれる。そこにある金のリンゴの木には蛇が巻き付いているので手を出せないばかりか、彼女は病気になってしまう。回復期に彼女は迷子の猫を助けるが、今度は反対に猫が彼女を救ってくれる。
「三つ目の願い」
イバラに引っかかっていた白鳥、じつは森の王さまを助けたピーターズさんは、王さまに3つの願いを叶えてもらうことになった。最初に美しい妻を願って以来、二人は幸せに暮らしていたけれども…。
どれも昔話、おとぎ話の形を一見踏んでいるようでありながら、じつはエイキンが書きたいように書いたぶっ飛んだお話ばかり。
オウムとして海賊と永年暮らした王女さまは、宮廷に戻ったあとも海賊らしい言葉と習慣でみんなを困らせ、全然王女らしくならないばかりか、さいごに海賊時代の亭主と一緒に去ってしまう。
料理番になりたがった王女さまにもたらされた予言の文字は汚かったので「ブック」と読めはしたものの、いや「コック」と書いてあるんじゃないか?とも言われた。おやきっと正しい予言は「コック」だったんだわ、と思い始めたあとで、ちゃんとブック(本)が最後の鍵になる、というようにひねりが利いている。
楽しく、思いがけない方向に話が展開して行くのがエイキンの魅力だ。9編それぞれに比較できない面白さがあって、どれが好き、とはとても言えない。
「3つの願い」では願い事をふたつだけに止めたピーターズさんと白鳥の姉妹の暮らしが印象的で、他の8編とはまた違った余韻を残す。いぢわるい目をした森の王さまもなかなか良い。
★ジョーン・エイキンのリスト(amazon.com)
★同じく(sfsite)
★Puffinの作者紹介
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題名は有名だが、どういう話であるのか、まったく予備知識なしに読み始めたが、これが思わぬ大ヒットだった。ガルシア=マルケス初体験である。
中南米の奥地に開かれた村マコンド。その創成期のリーダー、ブエンディア一家の
人々とマコンドの百年に亘る年代記である。1ページ目のこんな描写にコロッと参った。
ようやく開けそめた新天地なので名前のないものが山ほどあって、話をするときは、いちいち指ささなければならなかった。
マコンドの開闢以来、代々繰り返し名付けられるアウレリャノ、ホセ・アルカディオという名前、女の子にはウルスラ、アマランタ、レメディオス。エネルギーが充満した人々を巡って、溢れるように次々繰り出される挿話の奔流。神話から神性の堕落へ、夢から覚醒へ、生成から消滅へ、予言と成就、魔法と科学、そして輪廻。
マコンドを臍、あるいは渦の中心のようにして、次第に流れ込む外界の人と事物、それと入れ替わって出て行くマコンドの住民たち。臍であるブエンディアの屋敷には、初代のホセ・アルカディオとアマランタが、一種不思議な形でいつまでも存在し続けている。マコンドの消滅の日まで。
ジプシーの持ち込む手品まがいの怪しげな品々、と思えば空飛ぶ絨毯、異国で死んだはずなのに再び戻ってきたメルキアデスら多くの死者たち、シーツとともに昇天する美女レメディオス、百科事典の知識をすっかり吸収し、更にそれ以上の物事を知る能力を持つアウレリャノ・バビロニア。色街に占い、戦争とテロ、鉄道とバナナ会社。この混沌のエネルギーのものすごさに、引き込まれずにはいられない。
目を瞑ってページを適当に開いて指をあてずっぽうに突き立ててみよう、その指が指すどの部分の挿話も、それだけで一つの独立した物語が出来そうなほどの物語性を秘めている。あまりにも有名な作品なのでこれまで敬遠していたことが後悔される。読みにくいとか小難しいとか言うことはまったくない。ただ物語に身を任せ、そこに次々と繰り出される驚異を、何かの象徴だろうか、比喩だろうか、などと思わずに、まず素直に単純に、あるいは驚き、あるいは笑い、あるいはごく当たり前のこととして受け入れればよい。そこに潜む歴史や背景、引用を跡づけるのもまた別の楽しみだ。まずはお楽しみあれ。
物語の底に常に流れる音色は、何人ものアウレリャノたちに共通するという、「淋しげな翳」である。彼らブエンディアの者たちは、一見奔放に生きながらそれぞれ愛を知らない。同情や憐れみを、愛と思い違いするだけだ。彼らは皆、結局は自分勝手に好きなように生きている。とうとう愛によって生まれた最後のアウレリャノは、生まれてすぐに一家の消滅をになう…古い予言の通りに。
中盤を過ぎて、文中に「孤独」という文字が散見されるようになると同時に、マコンドには初期のみずみずしい活力が感じられなくなって行く。白蟻たちが屋敷をむしばんで行くように、マコンドが見えないところから蝕まれて行くのを感じる。ただ、あまりにも彼らのエネルギーが強烈すぎるせいか、「孤独」という言葉のニュアンスが日本語のそれとどうもしっくり来ない思いをずっと抱き続けたことは否めない。ただ一族の大抵のものが、ひとりぼっちで死ぬことは印象に残った。
アウレリャーノとはどういう意味だろう。アルカディオはアルカディア(理想郷)の意味だから、マコンドを拓いたブエンディアはこの名でなくてはならなかったと言うわけだ。
また読んでいて池上永一を想起したのも言ってみれば自然かもしれない、どちらの作品も、読者によりマジックリアリズムという言葉をかぶせられているのだから。
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イギリスはサウスストーンに住む13歳の少女セシルには17歳の姉ジョスと三人の妹、一人の弟がある。彼らがあまりにわがままだと言って、母は戦争の跡を見せて彼らの考えを正そうと、父が出張で長く留守をしている間に彼らをフランスに連れて行く。ところが目的地に着く直前、母はアブに刺されたのが元で病気になってしまう。
ようやく到着した目的地オテル・デ・ゾイエ(ホテル・カーネーション)との出会いは、彼女らにとってどんなに鮮やかな記憶を残したことだろう。じつはオテル・デ・ゾイエは、フランスで最も美しい土地の一つシャンパーニュ地方のただ中に位置するのだった。たわわに実る果樹園のすももが、この夏の全てを象徴しているのだ。オーナーで、美しく子供っぽいマドモアゼル・ジジ、ホテルの切り盛りをするマダム・コルベ、個性ある使用人たち、そしてジジのもとに居候している一種超越した雰囲気を持つ謎めいたイギリス人のエリオット。
美しく、時間を超越したような豊かな夏が、ホテルの内外を芳しくゆっくり通り過ぎて行く。そしてすべてはエリオットが姉のジョスをはじめてまともに見た瞬間から始まったのだ。
少女から一人前の女性になってゆく美しい姉を持つセシルは、自分自身には姉のような魅力がないと思っている。子供と大人の狭間のどっちつかずの宙ぶらりんな位置にいる彼女は、行きがかり上彼女の回りで起きる全てのことを目にしてしまう。いつまでも続くかと思えたこの悠久の夏は、ある時、急転直下の展開をみせることになる。
美しく優れた姉と、見栄えのしない不器用な私。この対比はゴッデンのお得意なのだろうか。語り手のセシルは、この夏、たとえそれが表に出なくとも、実はいかに豊かに物事を受け止めていたことだろう。オテル・デ・ゾイエでの出来事は、彼女の資質に大きな影響を与えた。見ること、感じること、吸い込むこと。彼らは皆、そうだったのだ、ジョスはジョスなりに、セシルはセシルなりに。
あとがき(原作では前書きだそうだ)にもあるように、この物語は実際のゴッデンの体験に基づく部分が多いという。読んでいてまるで映画のようだと感じたが、実際に映画化されたようなので、見てみたいものだ。
この地の美しさ、出来事の面白さは言うまでもなく、小さな、けれども心に残る記述が幾つかある。あれほどやや嘲笑気味に疎んじていたウィリアムおじさんがいざ彼らの目の前に現れると、彼らは皆、どんなにおじさんに会いたかったか、と思うくだり。また「エリオットは私たちには常に誠実だった」という、曇りのない目。ゴッデンの作品の素晴らしさの秘密を、このような視点に、端的に感じたのであった。
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悪名高いチャウシェスク政権が倒れた直後のルーマニアに神父や大学教授ら6人の「国際視察調査団」なる一団がやってきた。信じられないくらい衛生状態の悪い病院や孤児院を視察して回る。たくさんのの子どもたちが悲惨な状況下にあり、その多くはエイズに罹患していると言う実態に、神父オルークは涙する。視察団のスポンサーでもあるアメリカの大富豪トレントは一団が帰国するにも関わらず一人ルーマニアに残る…。
その後、そうした病院のひとつに勤務するアメリカの血液専門医ケイトは、重症の免疫不全症候群を患っている生後8ヶ月の身よりのない赤ん坊に非常に興味深い症状を見いだすと同時に、彼に愛情を抱き、ルーマニア人の友人・医学生ルチアンの助けを借りてたくさんの障害を越え、養子にした赤ん坊を連れアメリカに向けて出国する。ケイトの大学では赤ん坊・ジョシュアに見られる症状を研究することによりエイズの治療法を導きだすべくプロジェクトが開始される。その最中、ケイトの家が多数の黒ずくめの男たちに襲われ、ケイトの家は燃え、元の夫と友人は殺され、ケイト自身は重傷を負い、当のジョシュアは誘拐されてしまう。ジョシュアの研究データもすべて破壊され失われてしまった。
ルーマニアの「闇の一族」がこの誘拐にかかわっていると確信するケイトは、以前ルーマニアで知り合った神父オルークとともにかの地へ潜入を図り、ジョシュアを取り戻そうとする。
トレントとはどのような人物か。敵か味方か判然としないルチアンの目的は何か。厳しいガードをくぐり抜けてケイトはどのようにジョシュアを取り戻すのか。
ごくかいつまんで言うと、これは吸血鬼の生化学的解釈本である。そしていわゆる吸血鬼以上に恐ろしいのが、ジョシュア救出劇に挟まれる、吸血鬼のモデルとなった実在の人物・ヴラド串刺し公の残虐きわまりない行為の数々である。かれは敵味方にほとんど関係なく、次々と人々をとがった杭で串刺しにし続けるのだ(ダン・シモンズはここからハイペリオン四部作のシュライク、早贄の木の着想を得たのだろう)。そしてその一族はそれ以後今に至るまでルーマニアを蔭から操り続けている、というのがこの作品の勘所である。
この中で、いわゆる吸血鬼は、血を吸うという行為に対して遺伝的な原因を与えられている。なぜ人間の血を飲まなくてはならないか、彼らにはきちんとした(疑似)医学的理由があり、しかもそれに対して解決法が提示されるのだ。しかしそれでも解決され得ない残虐行為への渇望が、ヴラドの血には流れている。
ついにジョシュアは救出され、闇の一族はまるで大仕掛けな映画のような手法によって殲滅されるが、吸血鬼に付き物の黒いコウモリのような影と共に最後にほのめかされるヴラドの日本への興味が、おっかない余韻を残すのである。日本が舞台となる続編希望(怖いもの見たさ)!
またルーマニアの暗く美しい自然の描写が素晴らしい。『エンディミオンの覚醒』でも天山の場面で山から山への滑降シーンなどの息が止まるような素晴らしい描写があったが、この本ではケイトのロッククライミングシーンがみられるなど、作者の自然・山への興味がうかがわれる。崖や空中から遙か下を望む光景の描写も『ハイペリオン』の神父の章などを思い出させ、圧倒的な臨場感はさすがダン・シモンズと思わせる。
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イギリスのバークシャー丘陵地帯のアフィントンには、地肌の白い土(チョーク)を露出させて描いた巨大な白馬の地上絵がある。これはおそらく紀元前一世紀頃に描かれたものと考えられている。サトクリフは、この躍動的な命を持つ古代の白馬に魅了され、これが描かれた背景にあった物語を紡ぎだした。
緩やかな緑の丘陵地帯に住むイケニ族は馬を飼育する「馬族」で、この地に住んでいた先住民を征服した部族であり、馬の女神エポナと月を崇めている。さて征服者の血には必ず先住民の血が混じるものだが、族長ティナガンの三番目の息子ルブリン・デュにもその暗い血が現れていた。幼いある日、ルブリンは激しい稲妻に照らし出された野生の白馬の姿を心に焼き付けられる。彼は次第に抜きんでた画才を顕わすようになる。彼は少年時代に無二の親友ダラを得、将来は共に北の新しい地を求めて旅立とうと暗黙の了解をしていた。しかし彼らが青年時代を迎えた頃のこと、イケニ族は族長の娘婿が次代の族長となるという掟を持っていたが、占いによって、何とダラがルブリンの妹の婿になる、すなわち次の族長となることと定められてしまい、二人が夢を共にすることは叶わなくなる。そんな折り、南のアトレバテース族が北上してイケニ族の定住地を脅かす。短い戦闘によってルブリンの父である族長を始め多くのイケニ族は殺され、ルブリン、その妹テルリ、ダラを含むわずかな生き残りは捕虜となった。アトレバテース族に、イケニ族の族長のただ一人生き残った息子、即ち新しい族長と誤解されたルブリンは、一族の解放とひきかえに、緑の丘陵にアトレバテース族の崇める太陽の馬を巨大なサイズで描く約束をする。その白馬はアトレバテース族の太陽の馬であると同時に、イケニ族の崇める月の馬でもあるが(原題参照)、彼は、それに魂を吹き込むためには彼自身の命と血を捧げなくてはならないと悟る。巨大な白馬の絵の完成を待って、解放された真の族長ダラはルブリンと別れを告げ、僅かな一族と馬を連れ、一族の再興を期し北の地に旅立って行くのであった。
表紙にもなっているアフィントンの白馬は、緑の丘陵の中に100メートル程の大きさで描かれ、馬と言うよりきつねか何かではなかろうかとおもわれる姿をしているが、その流れるような躍動感と特異な表現はあたかも現代の斬新なデザインのようでもある。作者はこれを描いた人物として独特の画才を発揮するルブリンを創作し、彼が、見たままのものを描くと言うより見たものから受けたイメージ、動きを描こうとする様を描出している。おなじ創作という技を用いる作者は、その時のルブリンの心の動きとまったく同一化していたに違いない。その集中、昂揚感は別次元へと読者を運んで行く。また丘陵地の自然の景観をルブリンの心理にからめて描いた描写は美しく、サトクリフらしく骨太な構成ながら心震わせずにはいられない。
ルブリンが、妥協することなく命を持った馬を描こうと渾身の力を傾け、その時代に考えられていたようにそのために自分を捧げようとする姿はきっぱりとして崇高ですらある。芸術に身を捧げると言ってしまうと格好いいが、彼は、それと同時に、仮の族長とは言え一族の運命という重荷を担ってもいたのである。解放されて一族と共に北へ赴こうとする親友ダラとの別れのシーンはあまりに美しい。
「おれの魂の友よ」ダラが言った。「りんごの聖樹の地で、おれを待っていてくれ。あすかもしれない、あるいは北の国で多くの戦士の長となり、年老いて馬にも乗れず刀も持てなくなってからのことかもしれない。でも必ずおまえのところへ帰るから、それまで待っていてくれ。おまえをいつも思っているから、おれを忘れないでくれ」
「忘れるものか」
また先住民の血をその身に顕わした容姿を持つルブリンは、幼い頃からそれに起因する孤独(とおそらく疎外感)と共にあったかも知れないが、しかし異分子としてあるいは一族からはずれたものとして描かれてはおらず、作者は、歴史に繰り返される征服者と被征服者の交代は定規で線を引いたように行われるのではなく、生きた人間同士の交流がそこにあることを示している。征服者アトレバテース族の族長とルブリンの交流にもそれは表されている。サトクリフの歴史物語が語ろうとしているものの多くは、この点なのだ。
いっぽう作者の描く様々な心理は、ルブリンが自らを犠牲にしようとする部分をも含め、あまりに現代的感覚に依存したものにも思われるが、物語の語り手としてのサトクリフはいつもながら素晴らしく、中編ながら透き通った、ルブリンの隠れ家ハルニレの木からおちる露のしずくのような佳品であるのは間違いない。
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