ESSAY: NEON GENESIS EVANGELION

1997.7.27
Nao


I.「碇シンジ」をめぐって

まず最初に、エヴァンゲリオンを、碇シンジ(もしくはチルドレン)の自我の問題、あるいは、自我から「この私」を回復しようとする物語として、いくつかの哲学の文脈を手がかりに探ってみましょう。





■鏡像段階もしくは懐疑論

人間には、「こうあるべきだ」という「記号」が与えられている、と考えるところから、まず出発しましょう。

ある「記号」が「他の人間の眼差し」を通じて「この私」に与えられ、その結果、「私」(=自我)というものが生まれる。

その最初の「記号」を与えるのは、母親だという説があります。

ジャック・ラカンという心理学者は、幼児の生後6カ月から18カ月の段階を「鏡像段階」と呼んでいます。

この時期の幼児は<寸断された身体>と呼ばれ、自らの身体器官の中に統一性がなくばらばらで、どこまでが自分でどこからが外界か、わからない状態にあるといわれます。

幼児は、母親を見ながら、そこにある理想的な身体的な統一性を見出し、その像によって自己のまとまりを得ようとするそうです。

しかし、この「統一性」は安定したものではない。
なぜならば、その「統一性」を保つには、絶えず、母親や、自らが関わる「他の人間」(=他我)の中に自らの統一性を探しつづけなければならないからです。

このようにして、「この私」は、「他我」の中に見出された「記号」、他我との関係によって自らに与えられたその「記号」を、自我として認識します。



しかし、「この私」は、様々な関係を結ぶにつれ、いろいろな「記号」を与えられていき、「私」はどんどん膨れ上がっていきます。
膨れ上がった「記号」が「この私」を次第に圧迫します。

たとえば、誰にでも愛されたくて、誰にでもいい顔をしようとすると、すぐにつじつまが合わなくなり、どこか無理をしなければならなくなり、だんだん自分が苦しくなりますよね。
与えられた「記号」に合うように「この私」を統一し続けるのが苦しくなるというわけです。

そうなると、だんだん、与えられた「記号」は本当に「この私」なのだろうか、という疑問を持つようになります。与えられた「記号」をもっともらしく見せていた根拠が、だんだん疑わしくなってきます。

だから、「この私」は、「私」を成立させてきた「記号」やその根拠を、それを「この私」に与える(あるいは押しつける)他の人間を、そして、そうやってできた「私」を、疑うようになるわけです。

あらゆる物事を「思いこみ」として疑うところから出発するわけです。


碇シンジは、「エヴァのパイロット」という「記号」を与えられ、それに基づいて自我を形成する。
が、それは疑わしい「記号」である。
しかし、「私」を周りの人々、特に、彼を「見捨てた」父親に認めてもらうためには、その「記号」に基づいた自我を「私」とするしかない。
このダブルバインドがシンジを苦しめる。





「エヴァのパイロット」という「記号」への懐疑は、フィフスチルドレン=第17使徒、渚カオルの登場によって決定的となる。
「記号」の根拠を失った碇シンジの自我は、ついに、完全に崩壊する。


さて、エヴァンゲリオンにおいては、人類を滅ぼそうとする「使徒」(shi-to)がだんだん「人間」(hi-to)に近い姿になってくるにつれて、「使徒」が本当に「悪」なのか、視聴者はわからなくなってきます。
したがって、おきまりの、「悪」と闘う「正義」という図式がどんどん疑わしくなっていきます。この図式は、「人類補完計画」の前景化とともに次第にその根拠を失っていきます。

あるいは、碇シンジは、しばしば「エヴァに乗る理由」がわからなくなり、それを自問します。「エヴァに乗ると、みんなが褒めてくれるんだ」という「記号」で何とか「自我」を取り戻し、支えようとするのですが、その「記号」(エヴァのパイロット、という存在理由を持った「私」)を疑わざるを得ない事態に直面すると、その「記号」を拒絶し、エヴァへの搭乗を拒否します。

エヴァンゲリオンは、碇シンジが、自分に与えられる「記号」を懐疑しながら、「この私」を探そうとする物語、とも言えるわけです。



■独我論もしくは現象学

あらゆる物事を「思いこみ」として疑うところから出発し、そこからあらゆる物事を捉え直す。そうすると、今まで真理だと思っていた事物や他我が、すでに構成された「私」が形づくる幻想のようなものだと感じざるを得ないようになるわけです。

「私」が知覚し、認識している世界は、「私」の意識が関与することで造られた表象に過ぎない、ということに気がつくわけです。

ジョージ・バークリーという哲学者は、「存在するとは知覚されることである」という有名な言葉を、1710年に書いた「人知原理論」の中に残しています。

真理なんてない。絶対的な価値なんてない。もっともらしい自分の存在意義なんて、よく考えてみるとみんなあやふやで疑わしい。

「この私」が他の人間から与えられた「記号」をもとにつくられたシナリオ−
あるいは、それをさらに、自分がかっこよくなるように、都合よくなるように、快くなるように、脚色したシナリオ−
そういった、でたらめな嘘に満ちたシナリオが根拠になって、我々が認識する事物や自我、他我というものが成立し、「私」が日常的に生きている現実というドラマができているわけです。

だから、このようなシナリオを全部破り捨てた場所からしか、与えられた「記号」によって歪められていない世界を見ることはできないでしょう。
これがエドムント・フッサールという哲学者が「エポケー(判断停止)」と呼ぶものです。

そして、このような場所にじっくり腰を据えて、そこから再び世界を構成する「私」の意識の働き方(=「志向性」)そのものを観察して、それを「純粋意識」として取り出そうとしたのが、「現象学」と呼ばれるものです。





しかし、私のような凡人は、フッサールのように意志が強くなれないわけですから、こんな場所に自分がいると、それこそ、何がなんだか、わからなくなるわけです。

何がなんだかわからないけれども、とにかく、もうこれ以上、「この私」と世界との唯一の接点である「私」を危うくするようなものは見たくない。
だからといって、再び「この私」に「私」という「記号」をこれ以上与えられるのも苦しい。だいたいそんなものは嘘じゃないか?

そんなわけだから、このような苦しみをもたらすきっかけとなるような、他の人間との関わりが嘘っぽく感じられるようになる。苦しみをもたらすから、避けたいと感じられるようになる。

他の人間も自分の造った幻想のように感じるから、孤独になる。そして、「この私」にとって、世界には、自分独りしかいなくなる。

「人間には恐らく自分の顔を識るということが、不可能なんだろうと思う。それともそれは私が孤独だからだろうか。他人と交際をしている人たちは、友人達に見られているのと同じものを、鏡の中の自分の顔に発見することを学ぶものだ。 私は友人を持っていない。私の肉体がこれほど裸であるのは、そのためだろうか。まるで、人間の住んでいない自然のようだ。

私はもう仕事をする興味がない。夜を待つことの外に、もうなにもできない。」

(J-P.サルトル 「嘔吐」 人文書院 p.29)



このような、独我論の先に広がる孤独の不安や苦しみと、そこから現象学的なアプローチでふたたび「この私」とそれが関わる世界とを捉え直そうとする試みとの間で、人間は揺れ動くことになるわけです。

エヴァンゲリオンにおいては、「シンクロ率400%」で自我境界線を失った碇シンジの自問のシーンなんて、まさに独我論と現象学とのドラマですよね。

あるいは、彼が対人恐怖症なのは、人との接触が、かえって「私」への懐疑を呼び起こし、「私」を危うくし、孤独のもたらす不安や苦しみを呼び起こすから。

惣流・アスカ・ラングレーが、「エヴァに乗る私」にあれほどこだわるのも、彼女がこの孤独を知っていて、それゆえ「記号」によって「この私」の統一性を保ち、それによって確固とした自我を保つことでしか、孤独から逃れられないと思っているからです。
それゆえ、シンジに敗れたことによりこの「記号」そのものがぐらつきだすと、あっという間に自我が崩壊してしまう、という悲劇となるわけです。

そして、発動された「人類補完計画」の中で、「最後の審判の法廷」(そんなものがあるかどうかはわからないが?)みたいなイメージの世界の中で、碇シンジが、彼にとっての「自我」「他我」を審問しているところなんて、現象学的ですよね。


惣流・アスカ・ラングレーは、「鏡像」を求めるはずの母親から拒絶されたことによって自我の危機を体験するが、「エリート」という「記号」を選ぶことによってこの危機を回避してきた。
アスカは、「エリート」を証明する「エヴァのパイロット」としての自分が挫折することによって、母親から拒絶されたときに逆戻りし、自我の懐疑がもたらす孤独に突き落とされることになる。





■実存主義

人間には、「こうあるべきだ」という設計図がない。「こうあるべきだ」という規定が最初から失われている。人間は、どうあるべきか、ということを、常に選びながら行動し、生きていかなければならない。

人間は、何らかの設計図が存在するよりも前に、人間として現実に存在してしまっている。ジャン・ポール・サルトルという哲学者は、このように考え、このような人間の存在の仕方を「実存」と呼びます。

この世の中に投げ出された瞬間から、人間は、自分自身の選択と行動によって、自らの在り方を決めていかなければならない、とサルトルは考えます。
たとえば、道具は、それが存在したときから「○○に使うもの」という「価値」を持っているように見える。ペーパーナイフには、「紙を切るもの」という「価値」があります。
しかしながら、人間は、自らが選択し、行動しなければ、じっとしていて、何もしないでいると、何の「価値」も持たないわけです。

サルトルは、前者のペーパーナイフのようなものを「即自存在」、後者の人間を「対自存在」と区別しました。「即自存在」は、それ自体が物ですから、自己を意識する自己がありませんが、「対自存在」は自分を対象として見て、それによって自己を意識する、というわけです。

自己を意識する「対自存在」というのは、「即自存在」のように固定された定義がありません。
たとえば我々がスプーンを見て、これを「スプーンだ」というときに、「対自存在」は「そのスプーンについて意識する」存在であるだけで、それ以上の固定された定義はありません。定義しようとしても、スプーンとは違う何か、という定義しか、確かなものは見つかりません。
そういう、固定された定義がない、「無」のような存在が、「対自存在」である我々人間、というわけです。



聖書の創世記に登場する、蛇にだまされて生命の樹になっていた実を食べたアダムとエバとは、すべてが矛盾なく規定された、それこそ「即自存在」として安心して暮らしていけた楽園を追放され、自らの選択と行動に基づいて生きる「対自存在」として、「実存」として、生きるものとなった、とも言えるでしょう。

「実存」的な存在である人間は、楽園にいるときと違って「自由」ですが、「自由」は、最大の苦痛でもあるわけです。

「この私」が「私」であると認識することができるうちは、「私」を与える「記号」に基づいて、明確な選択や行動の基準を与えてもらうことができる。

が、そのような「記号」や、それに基づく明確な選択や行動の基準といったものを信じられなくなって、それでも、「この私」であり続けるために「私」を引き受けること、自らが選択し、行動し、その結果生まれていく、あらゆる「私」を引き受け続けること、これが実存主義の生き方です。


綾波レイは、物語の最初の方では、「即自存在」と「対自存在」との境界にいる、「人形」のような存在として描かれていた。
エヴァンゲリオンのもう一つの物語は、このレイが、「対自存在」として目覚め、自らの「無」を見つめ、そこから次第に感情や意志を獲得していくプロセスであろう。
(それはそれとして、とにかくレイちゃんはカワイイ!)






さて、エヴァンゲリオンにおいて、碇シンジが「人類補完計画」のプロセスを経て自ら選んだ世界とは何だったのでしょうか?

おそらく、この、実存主義的な生き方でしょう。

それはぶざまかもしれない。失敗するかもしれない。でも、それも含めて人間。そこから始めて、何度も失敗を繰り返しながら、それを「記憶」し「学習」していくしかないのが人間。

実際、"THE END OF EVANGELION"の方のラストシーンは、いろいろ議論を呼んでいるようですが、私は、「実存」を選択した碇シンジの、最初の失敗と、そこからの「学習」だと思います。

それは確かに「気持ちワルイ」けれども、そういう気持ちワルイ自分(たち)も含めて引き受け、そこから何とかしていくしかない、ということでしょう。



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