ESSAY: NEON GENESIS EVANGELION

1997.7.27
Nao


II.「人類補完計画」をめぐって

さて、エヴァンゲリオンという物語で、碇シンジが「この私」を回復する物語とともに、もう一つ忘れてはならないのは、エヴァンゲリオンで最も"アブナ〜イ"(笑)「人類補完計画」なるものです。

=【人類補完計画】
=出来損ないの群体として行き詰まった人類を、完全な単体生物へと
=人工進化させる計画。
=ゼーレ主導の下、特務機関ネルフが実行機関となり推進していた。
=尤も、ゼーレの思惑と、特務機関ネルフ −というより、ゲンドウ
=と冬月の目的は異なっていたようだ。
=EVAも兵器としてではなく、実際には同計画の実現を企図して建造
=されたもの。
=具体的には、サードインパクトを人為的に発生させる事で全ての
=人類を消去、一旦ヒトの形を捨て、新たな段階に人類を進化させる
=計画であったようだ。

("THE END OF EVANGELION"パンフレットより)


ホント、これ、"アブナ〜イ"ですよね。
こういう発想が、いかに歴史上、多くの悲劇と間違いを犯してきたかを考えると、いくらアニメーションとはいえ、私は「オイオイ、ちょっと待てよ」という感じでした。

しかしながら、今回の"THE END OF EVANGELION"の方を見て、とりあえずその結末に、私は安心したわけです。

「出来損ないの群体として行き詰まった人類」の解決策となると、さすがに哲学でも、そうそう扱っているものはありません。
そもそも、こういう問題設定そのものが、結構あいまいだからです。
普通の哲学者ならば、何をもって「出来損ない」と判断するか、とか、「行き詰まった」と判断するか、とかいった問いの答えを探しているうちに、人生という与えられた時間が終わってしまうことでしょう。

ということで、この問題は、逆に、エヴァンゲリオンのストーリーを意識しながら、「人類補完計画」的なものを私なりに整理し、それに関連する哲学の文脈とを、多少強引になるかもしれませんが、関係づけてみることにしましょう。





ゼーレと特務機関ネルフとがそれぞれ準備していた「人類補完計画」の相違−それは、「死海文書」というテキストをめぐる解釈の違いとも言えよう。
人間を超えた、ある避けられない受動的な変化をあらかじめ知らされたとしても、人間がそれをどう解釈し、何を選択するか、というのは、やはり極めて人間的な問題に基づくこととなるでしょう。


■三つのシナリオ

まず、シナリオの前提となる問題の設定をします。

"人間の「自我」は、事物や他の人間との不安定な関係の中で生み出される「差異」によって生まれる。

だから、その「差異」に応じて、「自我」も多様化し、それぞれの「真理」が生まれる。

そして、異なった「真理」をめぐって憎しみや対立が起こり、その結果しばしば相互の殺戮が引き起こされる。

この対立を解消するには、どうすればいいかというと・・・"

というふうに設定しました。
これに続けて、三つのシナリオを考えてみます。



■シナリオその1

一切の「差異」をなくしてしまい、「個」を消してしまうこと。あるいは、唯一の「自我」の中にあらゆる「個」を取り込み、同一化させること。

こうすれば、そもそも違いがないから、矛盾も起きない。

これは、たとえば「地球をひとつの生命体だ」といった「ガイア論」の亜流や、「全体は部分の総和以上である」といったホーリズム(全包括論)の亜流がもたらす、安易な「ロマン主義」、すなわち、「差異」を抹消した「統合」こそが素晴らしく、そこに解決を見出そうとする視点の、一つの終着点でもあります。

ただし、こういった「ロマン主義」は、実は特殊なものではなく、我々が日常の思考でしばしば使っている「弁証法」といったものをきわめて素朴に使ったような思考にも見られます。
「弁証法」とは、「いったんは矛盾、あるいは否定として存在した要素が、より高次の段階では矛盾ではないもの、否定的ではないものとして新たに存在するようになる」という考え方です。

これは、優れた部分もある反面、間違った使い方をすると、とんでもない「高次の段階」がもっともらしく設定され、そこから、そこにはまらないものが飲み込まれ、「この私」にとっての様々な「私」の可能性を暴力的に奪われ、「高次の段階」のふりをした、きわめて恣意的な「記号」に閉じこめられてしまう危険もあります。

これは、エヴァンゲリオンにおいては、おそらく「ゼーレ」が考えていた方の「人類補完計画」だったのでしょう。

あの「ゼーレ」のシナリオによれば、いったい誰がその唯一の「自我」になったのでしょうか?キール議長?おそらく違うでしょう。
それはおそらく、「ゼーレ」のメンバーが思い描いていた「高次の次元」というフィクションを反映した、誰でもない、ある「自我」なのでしょう、きっと。

いずれにせよ、「個」はすべて、その「自我」に取り込まれ、消滅するわけですね。
これは(百歩譲って、エヴァのストーリーのように、身体の生と精神の生とがあるとすれば)精神の生すら奪う、ということです。まるで、集団自殺ですね。


嫌っていた父親が「セカンドインパクト」のときに自分の身代わりになって命を救ってもらった、というトラウマを「使徒」との闘いにぶつける葛城ミサト−。
しかし、彼女の父親を奪った本当の敵は、実は「使徒」ではなかったわけです。
そういえば、どこかのサイトで見たのですが、なぜ葛城調査隊に、当時14歳だったミサトが一緒に行っていたのでしょうか?
実は彼女も、一種の「チルドレン」で、あの光の巨人、アダムにシンクロしていた、という説までありますが・・・。





葛城ミサトのペット、謎の温泉ペンギン「ペンペン」が、実はキール議長だった・・・というのは冗談です。





目的のためには手段を選ばない、シンジの父親、碇ゲンドウ。
彼が選ぼうとしたシナリオは、ゼーレとは違い、「サードインパクト」後にも人間の「魂」を残すものだった。もっとも一説には、単に自分の妻だった碇ユイに再会したかっただけ、という話もある。
(あそこまでいろいろな女を好きなようにしていて、よく言うよねぇ〜)





という意味でいうと、エヴァンゲリオンで一番カッコイイ女、赤城リツコは、どうしてこんな外道なゲンドウに引っかかっちゃったんでしょうか。
母親である赤城ナオコの「反復強迫」でしょうかね。
そういえば、リツコさんは、エヴァンゲリオンに乗らないで使徒を倒した、唯一の登場人物なんですよね。


■シナリオその2

「差異」を保ちながら、それぞれの「個」が安定して存在し得る「場」をつくり、そこで共存すること。

互いに安定し得る「場」があれば、そこから矛盾は生まれず、かつ、互いに「個」を保つことができる。

これは、まさに「救済」という感じですね。一つ一つの魂が、自らの不安な、限られた存在としての「自我」から救われる、というわけです。

いわゆる「自然に帰れ」「身体に帰れ」「自我から離れよ」系のユートピア論にも、こういうのがよくありますよね。

これが、(ちょっと自信がないのですが、もしかしたら)ゲンドウと冬月とが考えていた方の「人類補完計画」だったのでしょう。
(自信がない、というのは、もしかしたら、この二人が描いていた計画は、次に挙げる「シナリオその3」ではないか、という可能性も捨てきれないからです。)

しかし、こんなことは、この現実の世界において可能なのでしょうか?
おそらく、不可能でしょう。それぞれの「身体」を捨てて「精神」が同じ「身体」の中に入る、とかいう、ウルトラC級のフィクションの世界の中でならばいざ知らず、そんなものが実現する可能性はそもそもない。

なぜならば、そもそも「この私」というものが「私」を形成するためにはつねに「他我」が必要である以上、その「自我」が「安定して存在し得る」ためには、それぞれのシナリオにとって都合のよい「他我」が、それぞれの「自我」のために用意されなければならないからです。

それぞれ異なるシナリオに基づいて「他我」の眼差しを求め、そこから「自我」をつくっている者どうしが、それぞれのシナリオに合致するように、お互いに関わり続けることなんてできるのでしょうか?
こんなこと、奇跡に近いわけです。だって、それぞれの「身体」は一つしかないわけですし、それぞれ、行きたいところややりたいことがあり、それぞれの都合があるわけですから・・・(笑)

それに、もし仮に、それが可能だ、というフィクションを想定したとしても、もう一つ大きな問題が残ります。
それは、「この私」というものが、そもそも、<寸断された身体>といった多様なものであり、「私」が思い描いた「他我」を「この私」は裏切り、「私」が想像もしなかった「他者」との関係を結ぶ、そんな、多元=生成体だ、ということです。

そのような多元=生成体である「この私」は、「自我」が造り出した「他我」との「独り遊び」にはいつか飽きてしまい、「自我」を裏切るものを探し始めることでしょう。

「この私」は、「自我」が予想もしないような「他者」を求めるわけです。



■シナリオその3

「差異」の中でしか人間が存在し得ない、という前提を受け入れ、その上で、「記憶」し、「学習」し、つねに変化しながら生きていくこと。

これは、究極的な解決なんてものはもたらさないが、「この世界」を、「この私」として生きる以上、この方法しか、おそらくはないであろう。

これはすなわち、I.で紹介した「実存主義」に通じる生き方です。

ただし、ここで「この私」は、「私」を何度も何度も生まれ変わることになります。

新しい関係とともに、その都度生まれ変わります。そこには、予想外のシナリオが満ちています。

予定調和的な世界の中での「平和」ではなくて、「差異」の世界の中での、他者どうしの「理解」という「希望」を持ちながら、絶望的に思える矛盾した世界を受け入れて、その中で生きていくこと。

詳しいの説明は今回は省きますが、これはおそらく、ジル・ドゥルーズが「差異」と「反復」(ただし、ここで言う反復は、ラテン語の"repetere"には、「再び始める」「再び取りかかる」「更新する」「再開する」という意味に近い反復)の世界にも通じるではないでしょうか。

そして、これが、おそらく碇シンジが選んだ「人類補完計画」の結論だったのではないでしょうか?


碇シンジの選択、結局これが、エヴァンゲリオンという物語のテーマだったのではないでしょうか。
「希望」というものが重要でありながら、それが見逃されている今日の状況を見るにつけ、手垢にまみれていない、甘っちょろくない、ありもしないどこかの世界ではなく「この世界」の現実の中での「希望」が大切になっていると思います。




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