Kant-Deleuze
No.2

1996.5.30
Nao

さて、あなたはいかに生きるか?


あなたが自分の「認識」を、ともすれば自分自身の「都合」によってねじまげてしまうということ、あるいは、より正確に言えば、あなたの認識はつねにすでにねじまげられてしまっていることを前回書いた。

そして、あなたのねじまげられてしまった感覚や、それを通して形成されたねじまげられた理解がもとになって、あなたにとっての「本当」がつくられると、やはり同じような過程で異なった「本当」を持つようになった他者との間で、「本当」をめぐる闘争を繰り広げることになる、ということにも少し触れた。

さて、ここから、あなたにはどうするか?
たとえば、以下の三つの選択肢が考えられる。



方法その1

そんな「認識」をねじまげるような自分の都合、すなわち自らの言語や立場、信条、アイデンティティといったものを捨ててしまい、なにも混ざりもののない認識の素材=あなたの身体が感じたものだけを信じて生きていく。

しかし、このアプローチには、それ自体矛盾をはらんでいる。すなわち、「捨ててしまおう」ということ自体が、すでに「立場」であり、「信条」であり、「アイデンティティ」である、ということは、すでに矛盾である。
ということは、「認識」のねじまげがひどくなり、悪影響が出る前に、つねに自分を「捨て続ける」という方法しかないであろう。
でもそれって、止まったら終わりということだよね。


方法その2

そんなねじまげられた「認識」をそもそも信じずに、その背後にある「本当」を見つける。

しかし、このアプローチによっていろいろな人によって異なる「本当」が統合される保証はなく、やはりばらばらになっていく。
まして「認識」に基づかなくなると、もうあなたの想像力によってどんなことでも「本当」になっていってしまう。あなたは銀河系の支配者になることも容易であり、あなたを中心にして世界が回っていると堅く信じることもできる。
ただし、もしやはり同じようなことをしている人と出会ったら、きっとあなたはその人の存在を消してしまいたいと思うだろう。
ということで振り出しに戻る。

もっとも、みんなでおなじ「本当」を共有する、すなわち、あまり「本当」が暴走しないように注意深く見いだされ、定義されてきた、人々が共有する「本当」のルーツとしての「神」をみんなで信じるという方法は、実はそう簡単に否定できない部分があると思うけどね。


方法その3

そんな「認識」をねじまげる自分を認識し、そのメカニズムを解明し、正しい「認識」をできるようにし、そこから共通の「本当」を見つけられるようにする。

これも、この中にすでに大きな問題がある。すなわち、「認識」をねじまげる自分を認識している自分が、やはり認識している以上その認識をねじまげてしまう(ああややこしい)事態をどう判断するか、という問題である。
しかしながら、この認識を徹底的にやる、すなわち自分のあらゆる「ねじまげ」に敏感になりながら、この作業を続けていくならば、自虐的な趣味がないと結構つらいかもしれないけれども、とりあえずこれによって安易な「本当」を導きだしたり、それを危険にふりまわすようなことだけはとりあえずはなくなるんじゃないかな。
でもこれも実は、止まったら終わりということだよね。


ということで、かなり乱暴に論を進めてしまったが、次回は方法その3くらいから、もう少し丁寧に考えてみたい。

しかし、なかなかDeleuzeにたどり着かないですね。

(続)


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