Kant-Deleuze
No.1

1996.5.6
Nao

あなたが見ていること、聞いていること、
感じていることは本当ではない


あなたが見ていること、聞いていること、感じていることは、本当ではない。

本当ではない、というのは、あなたが信じている、あるいは信じたいと思っているようなところの客観的な真実はない、という意味である。

あなたが見ていること、聞いていること、感じていることには、既に、あなた自身が、すなわち「解釈」が入り込んでいる。

あなたにとって、ごくごく当たり前の本当らしいものとして目の前に現れている現実、あるいは現象は、既にあなた自身によって、捉え直されたものなのである。

しかし我々の認識がすべて経験をもって始まるにしても、そうだからといって我々の認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない。その訳合いは、恐らくこういうことになるだろう。即ち−我々の経験的認識ですら、我々が感覚的印象によって受け取るところのもの[直観において与えられたもの]に、我々自身が認識能力[悟性]が(感覚的印象は単に誘因をさすにすぎない)自分自身のうちから取り出したところのもの[悟性概念]が付け加わってできた合成物だということである。

(I.カント 「純粋理性批判」 岩波文庫・上巻57p)

そのような現象を、もしあなたが「本当」と信じたままでいると、そして、「本当」と信じたままそれを前提として物事を考え、それを他の人とコミュニケートすれば、たちまち、「本当」と「本当」とが衝突し、争いを招くこととなる。

これは結構やっかいな問題を引き起こす。

何しろ、当事者のどちらも、自分の最も「本当」と感じられる部分を根拠にして思考しているからである。

たとえばこれが夫婦喧嘩でも、端から見ていれば笑い話で済むかもしれないが、とはいえ、もしあなたが当事者なら、あまりこじらせたくないはずだ。もっとも、こじらせても運が良ければ人生のやり直しができるかもしれないが。

しかしながら、これがたとえば集団のレベル、具体的には国家や宗教、民族といったものの間で展開されるとなると、事態はかなりまずいことになり、しばしば血で血を洗うような争いにまで悪化してしまう。

例えばパレスチナ問題のような事態を目にすると、もう絶望的な気持ちにすらなってくる。

したがって、あなたが最初になすべきなのは、かの有名なカントのコペルニクス的展開である。

私は、対象に関する認識ではなくてむしろ我々が一般に対象を認識する仕方−それがア・プリオリに可能である限り、−に関する一切の認識を先験的(transzendental 超越的)と名づける。するとかかる概念の体系は先験的哲学(Transzendental Philosophie 超越論的哲学)と名づけられてもよい。

(I.カント 「純粋理性批判」 岩波文庫・上巻57p)

主観と客観との談合的な一致がもはや欺瞞であり、両者に裂け目が発見された地点から、いかに認識するか、ということこそが問題の焦点となってくる。

独断的合理論においては、認識論は、主観と客観との間の対応、観念の秩序と事物の秩序との間の一致の理想に基づいていた。この一致は二つの相を持っていた。すなわち、それはそれ自身のうちに合目的性を含んでおり、そしてまた、この調和、この合目的性の源泉・保証として、ある神学的原理を要求するものであった。(中略)
カントのいわゆる『コペルニクス的展開』なるものの根本的理念は次のこと、すなわち主観と客観との間の調和(合目的的一致)の理念に対象の主観への必然的従属の原理を置き換えることに、存するのである。認識能力が立法的であること、あるいはもっと正確に言えば、認識能力のなかに何か立法的なものが存することを見いだしたことが、本質的な発見なのである。

(G.ドゥルーズ  「カントの批評哲学」 法政大学出版局・22p)

あなたは物事を考える際に、自分の認識している現象を前提にする前に、まず認識そのものに視点を移し、それが「善く感じとる」ことを学ばなければならない。これがまず最初に行われるべき作業である。

それができていることで、あなたははじめて自らの認識を「善く考える」「善く行動する」ように編み上げる前提を手にしたことになる。

これは、たとえば「手術」を連想させる。微妙なメスの操作で患部=個人の「錯覚」という病を患った部分を、注意深く、丁寧に切り取っていく作業−。

しかし、この手術によって、あなたは「善く感じとる」機能を活性化させ、回復させることはできるだろうが、そこまでである。

「本当のものを感じる」特殊な感覚を付加した「改造人間」になるための手術は、この作業では不可能なのである。そして、それは、そもそも「形而上学」というSFの世界以外では不可能なのだ。

なぜならば、それはそもそもあなた自身にとって「外」のものだからである。

空間及び時間における物は、現象によって我々に与えられるが、しかしこれらの現象の質量は、知覚においてしか、従ってア・ポステリオリにしか表象せられ得ない。現象のかかる経験的内容をア・プリオリに示す唯一の概念は、物一般(物自体)という概念である。そして物一般の総合的認識がア・プリオリに与えるところのものは、知覚がア・ポステリオリに与えるところのものの総合の単なる規則だけであって、実在的対象の直観ではない。かかる直観は、必然的に経験的なものでなければならないからである。
物一般のア・プリオリな直観は不可能である。そしてかかる物一般に関する総合的命題が即ち先験的(超越的)命題なのである。

(I.カント 「純粋理性批判 岩波文庫・下巻22p)

ただし、ここで注意しなければならないのは、「それじゃ、すべてが所詮我々の解釈だ」といってしまうことである。こう口にした瞬間、あなたは、あなた自身の枠組の限界から目を背け、自らをその外にあるものによって触発される機会を永遠に失うことになる。

ちなみに私は、そこから生まれる懐疑論と相対主義が1980年代という時代の最大の問題であったと考えているが、これについては後で詳しく論じたい。

我々の認識の一切の可能的対象の総括は、いわば『見せかけの』地平圏をもつような一つの平らかな表面になぞらえることができる。そしてかかる地平圏はこの表面の全範囲を包括していて、さきに無条件的全体性の理性概念と名づけたところのものに相当する。この無条件的全体性という理念に、経験的に達することは不可能である。またこの理性概念をなんらかの原理に従ってア・プリオリに規定しようと試みたが、かかる試みはすべて失敗に終わった。しかし我々の純粋理性の一切の問題は、この地平線の外にあるもの、或いは少なくともその限界線上にあるものに関係しているのである。
高名なデヴィッド・ヒュームは、人間理性のかかる地理学者の一人であった。彼はこれらの諸問題を、理性の地平圏のそとへ追い出すことによって一切の問題を解決し得たと考えた、しかし彼はこの地平圏そのものを規定することができなかった。

(I.カント 「純粋理性批判」 岩波書店・下巻58p)

そして、ドゥルーズは、「カントの批評哲学」以後の著作において、まさにこの地平圏の前にとどまらず、それにひたすら向かっていき、それを描こうとし続けるという「不可能なこと」を試みた哲学者と私は捉えている。

その兆しは、彼のカントに対する以下の言及でも目撃される。

対象の従属の問題は、主観的観念論の観点からすれば、容易に解かれうるかのように、思われるかもしれない。しかし、このような解決ほど、カント主義から遠いものはないのである。経験的実在論こそ、批判哲学の変わることなき立場である。諸現象とは仮象ではない。しかしまた、われわれの活動性の産物でもない。それらがわれわれを触発するのは、われわれが受動的・受容的な主観である限りにおいてである。諸現象がわれわれに従属することが可能なのは、まさしくそれらが物自体ではないからである。しかし、それがわれわれの所産でなくしてしかもわれわれに従うことは、いかにして可能であろうか。受動的主体が体験する触発が必然的に能動的能力に従属するという風に、受動的主体が他面、能動的能力を持つということは、いかにして可能であろうか。

(G.ドゥルーズ 「カントの批評哲学」 法政大学出版局・22p)

そして、そこから描かれるカントの思考の軌跡は、何かを連想させないだろうか?

したがってカントにあっては、主観と客観との関係の問題は、内面化する傾向を示す。つまりそれは、本性において異なる主観的諸能力(受容的感性と能動的悟性)の間の関係の問題となる。
表象とは、おのれを呈示するもの(ce qui se presente)総合を、意味する。それ故、総合とは次のこと、つまり多様が表象されること、すなわち一個の表象のうちに含まれたものとして措定されること、に存する。総合は把捉(apprehension)と再生産(re-production)という、二つの相をもつ。前者によってわれわれは、何がしかの空間、何がしかの時間を占めるものとして多様を措定し、また空間ならびに時間における諸部分を『生産する』のである。後者によってわれわれは、後続する諸部分に到達するにつれて先行する諸部分を再生産するのである。このように定義された総合は、ただ単に空間・時間のうちに現れるがままの多様性に向かうだけではなく、空間・時間そのものの多様性にも向かう。仮に総合がなければ、実際、空間も時間も『表象され』ないであろう。

(G.ドゥルーズ 「カントの批評哲学」 法政大学出版局・23p)

この地点から、あなたはもう、この「カントの批評哲学」の後にドゥルーズがガタリとの出会いにより書いた奇跡の書物『アンチ・オイディプス』において人々が目撃する光景を垣間見ていることになるのだが、ここではあまり論を急がないことにする。(続)
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