Kant-Deleuze
No.4

1996.9.16
Nao

カントという思考装置


カントの「わかりにくさ」「響きの悪さ」とは、たとえばどのようなものだろうか?

それではまず、我々がある出来事や物を見たり聞いたりして、それを意味づけ、それをもとにして考え、さらにそれに基づいて行動するというプロセスを描いてみよう。

このプロセスを描くにあたって、我々の多くは、日常の経験的世界において慣れ親しんでいるある種の共同幻想をもとに、以下のような前提を無自覚的に持ってはいないだろうか?


  1. あなたが(客観的な)出来事や物を感じる

  2. その感じたもの(=直観)に基づいて、あなたはそれを意味づける

  3. そのように意味づけられた事物に基づいてあなたは考え(=観念)を生み出す

  4. その観念にしたがって、あなたは欲求や価値観を形成し、それに基づいて行動する


これらの前提は、何をもたらすだろうか。次のような例を考えてみよう。


まずあなたが誰かを好きだったとしよう。

すると、その好きな人の姿や振る舞いは、(他の人はしばしばそうでもないと思っているが)あなたにとって美しく見えたり、素敵に感じたりするだろう。

そして、あなたは「あの人は美しい」「あの人は素敵だ」「あの人ほどの人は世界に一人しかいない」と思うようになるだろう。

あるいは、その人があなたに笑顔を見せたりすると、「あの人は私のことが好きに違いない」なんて思ったりするだろう。

そして、「あの人とつきあいたい」「いつまでもつきあっていたい」と思ったりすることだろう。

すると、そのような信念に基づいて、たとえば今どきの男の子なら、自らのバイト代や給料を注ぎ込んで、その人に対してプレゼントを買い続け、「アッシー君」「メッシー君」を懸命に演ずるだろう。

そして、その結果があなたの一方的な思いこみだったり、勘違いだったりしたらそれで終わり。
ただし、たとえあなたが運良くハッピーエンドを迎えたとしても、その後もこの錯誤は、ときどきそれがほころびて危うく気づきそうになることはあっても、(とりあえず破綻するまでは)続いていくことだろう。


そろそろ、あなたは、先ほど述べた前提の嘘を見ることができるだろう。

これはたまたまそれほどひどい事態に至らない話(のつもり)だが、逆にこの錯誤が、たとえば誰かを憎むといった場合はどうなるか?実におそろしいことになる。今度は、次のような例を考えてみよう。


あなたが、民族Aに属していたとする。

その民族Aが、別の民族Bと対立していたとする。

あなたは子供のときから、民族Bがいかにずるいか、どれだけ嘘をついてきたか、いかに極悪非道かを身の回りの人々から教えられてきたとする。

すると、あなたは、おそらく間違いなく民族Bのやることなすことを「悪いこと」に感じ、彼らの顔を「極悪人」の怖ろしい人相に感じることだろう。

そのような認識によって、彼らに対する憎しみを増幅していき、そんな悪い彼らから「身を守る」ために「やむを得ない手段」をとることを正当と考え、そのような考えに基づいて行動することだろう。


いわゆる「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」状況が、こうして人々の闘争や殺戮をもたらすことになるのである。世界史を見ればこのような例は枚挙にいとまがない。

それでは、我々はこの錯誤をどのようにすれば避けることができるのだろうか。

簡単なことである。この錯誤をもたらす装置を、別の装置と置き換えればよいのである。

たとえば、カントの思考装置においては、錯誤をもたらす装置のこれら4つの前提のすべてが転倒される。すなわち、


  1. 客観的な出来事や物は感じることができない

    認識の対象となる事物はそれ自体がそのまま主観の中に現れるのではなく、(超越論的)主観によって現象としてもたらされる。
    出来事や物それ自体(=物自体)があり、それを我々がありのままに感じることができる、という前提に立つと、我々にもたらされた直観が、「つねに、すでに」ある力によって歪められてしまっている事態が見逃されてしまう。
    この事態を避けるために、「われわれは物自体を感じることができない」という前提に立って、それを感じる前に入り込んでくる様々な概念のノイズに規定されない直観(=純粋直観)を求めることになる。
    こうして、ノイズをそぎ落としていくと、直観を得る能力(=感性)は空間と時間だけの形式に純化され、そこにおいてのみ純粋直観に近づくことができる。


  2. 我々が感じたものは注意深く意味づけなければならない

    現象を何らかの統一へと結合するものは対象自体にではなく主観に由来し、しかも感性から区別された認識源泉としての主観、かつ、受動的ではなく自発的な認識源泉として主観に由来する。
    我々は自らが感じたものを、その感覚の生々しさに引っ張られすぎたり、逆に、それをある限定的な概念に短絡的に結びつけたりして、そのようなノイズがまざった意味づけをしてはいけない。
    直観を意味にまとめていく能力(=悟性)は、その編集作業の「前に」入ってくるノイズをそぎ落としかなければならない。その結果、たとえばカントの唱える「カテゴリー」という形式に純化された悟性によって、主観を対象と「誠実に」対話させることにより、純粋概念に近づくことができる。


  3. 誤った認識(=直観+概念)に基づいた観念は錯誤である

    誤った認識に基づいて何を考えても、あるいはそこから正しい観念をもたらす能力や作用(=理性)を探っても、そのもとになる情報がそもそも間違っている以上、錯誤である。したがって、われわれが経験的な世界の中で築いてきたノイズが入り込んだ認識に基づく観念や理性(=経験論)は錯誤である。
    あるいは、あらかじめ仮定されたある統一的な世界観というノイズがあらかじめ入っている感性や悟性に基づいて構築した抽象的な世界(=超越的世界)に基づく観念や理性(=観念論)は錯誤である。カントによれば、そもそも経験=認識から切り離された思考は、錯誤をもたらすものである。ただしその例外は「超越論」、すなわち、経験=認識する対象ではなく、経験に先だって、認識を形成するメカニズムそのものを明らかにし、それを「善く」作用させる思考である。


  4. 誤った認識や観念に基づいた行動は悪である

    誤った認識や思考は、(何度も繰り返すが)あらかじめその「前に」ある力の介入を受けており、したがって、それに基づく行動は、無自覚的にその力に荷担することを意味する。
    そもそも、経験的な世界にありがちな、「ある利害のために行動する」という目的論や、「自分の幸福を追求したい」という無制約な自由主義に基づく認識や観念は我々に「悪」を為させるのである。そのようなものにとらわれない、何ものにもとらわれない、何ものも犠牲にしない意志のあり方が命ずるところのものにしたがうことにおいて、はじめて「善」が見いだされ、それに基づいた行動が可能となるのである。


以上のような装置は、先ほど述べた、日常の経験的世界において慣れ親しんでいるある種の共同幻想を維持するプロセス=装置を転倒させることで不協和音をもたらし、それゆえともすれば「わかりにくく」「響きが悪く」感じられる。
そして、それゆえにこそ、この装置には価値があるのである。

注意しなければならないのは、カントのこのような創造的な転倒をもたらす装置を、そのまま「真理」として、お説ごもっともとして受け入れてしまう態度である。そうすると、一般的にイメージされるカントのように、融通の利かない法則や道徳を遵守する、限りなく非創造的な方向に陥ってしまうからである。

カントの思考は、そこに世界の究極的な原理を求めるのではなく、それを装置として機能させることで、はじめてその効果−あなたの思考を純化し、活性化させる可能性−をもたらしてくれるものである。

しかし、ここまでではまだ「可能性」である。「可能性」だけでは、その先に広がる世界を具体的に想像させることは、私のような凡人にはなかなか容易ではない。そもそも悟性がいつの間にか自らの純化を怠ることも、あり得ないことではない。


誤謬の伝統的な概念(精神における外的規定の産物としての誤謬)に対して、カントは、疑似問題ならびに内的錯覚の概念を置き換える。これらの錯覚は不可避的であり、理性の本性から結集するとさえ、いわれうるのである。「批判」がなしうるすべてのことは、認識そのものに及ぼす錯覚の諸結果を祓いのけることだけであって、認識能力のうちに錯覚が形成されることを防ぐことはできない。

(G.ドゥルーズ 「カントの批評哲学」 法政大学出版局 39p)


悟性に自らの純化を怠らせず、その努力を続けさせるものは何だろうか。
たとえばカントのテキストの中には、悟性を純化するカテゴリーを正当に適用させる「図式化」を取り持つ能力として、想像力が登場する。ただし、その助けを借りて、悟性が自らの純化に近づくとしても、それを行う主体が悟性自身であるとすれば、それがどのような方向を目指すかは、やはり最後には悟性自身の問題となってしまう。
悟性の純化を活気づけるものとは何か。
そこに、たとえばカントにおいては「美的なもの」が登場するのであろう。


美の感覚の発生は、いかなる様相を呈するか。自然の自由な素材、例えば色彩・音響といったものは、単に悟性の規定された諸概念に対応することには尽きないもののように思われる。それらは悟性をはみ出し、概念のなかに含まれるよりあるかに多くのものごとを「考えさせる」。例えば、われわれは色彩を、これに直接充当される悟性概念にのみ関係づけるだけでなく、全く別の概念へと関係づける。この概念は、それ自身としては直接対象をもっていないが、直観対象との類比によって、おのれの対象を措定するが故に、かの悟性概念と似たものとなる。この別の概念とは理性の「理念」であって、これがかの悟性概念に似ているのは、ひたすら反省の観点からでしかない。こうして白い百合は、単に色彩と花の概念に関係づけられるだけではなく、純粋な無垢という「理念」を喚起するのである。そしてこの理念の対象は、百合の花の白さの(反省的な)相似物でしかないのだ。「諸理念」が自然の自由な素材における間接的呈示の対象であるという事情は、以上の通りである。この間接的呈示は象徴作用と呼ばれ、美的なものへの関心を規準としているのである。この結果、二つの帰結が生ずる。つまり、悟性はみずから、おのれの諸概念が無制限な仕方で拡張されるのを見、想像力は図式機能においてはまだ服属していた悟性の拘束力から解放されて、自由に形態を反省することができるようになる。したがって自由なものとしての想像力と、無限定なものとしての悟性との一致は、美的なものへの関心によっていわば駆り立てられ、活気づけられ、産出されるのである。

(G.ドゥルーズ 「カントの批評哲学」 法政大学出版局 86p)


理性を、悟性、理性、想像力のそれぞれ異なる能力において見いだし、それらの使用される場面を、あらかじめ統一的な原理に依拠せずに見いだすときに、それぞれが他の能力と、相互に区別されながら協調作用を行うことが、見いだされる。


かくして諸能力の理説は、超越的方法を構成するところの、真の網状組織を形づくっているのである。

(G.ドゥルーズ 「カントの批評哲学」 法政大学出版局 16p)


いろいろな方のご批判のメールをいただきながらも、ここまで主に「Gilles Deleuze」というタイトルの下に、主としてカントの思考装置について語ってきた。それには、私なりの理由がある。

  1. ドゥルーズが、(その一般的なイメージとはおそらく逆に)極めて正当なカントの後継者であるということ。もちろん、それはしばしば、より創造的な認識や思考に我々を導くためのアイロニーやユーモアをともなってではあるが。

  2. ともすれば「ポップ哲学」として機能しているきらびやかな概念ばかりとりあげられがちなドゥルーズだが、そのきらびやかさは、カントがもたらした理性の純化という思考装置の中で、あるいはそれを経てはじめて機能するものだということ。

  3. そして、カント以前の理性の混濁状態の中でドゥルーズのきらびやかな概念が機能すると、その本来の創造的な使用とは逆に、我々を錯誤に導くことになってしまうものだということ。


かくして、ドゥルーズの思考装置の出発点に、無事にあなたを導くことができた事を祈るわけである。

(続)


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