Kant-Deleuze
No.5

1996.10.20
Nao

Summary of No.1 - No.4


我々が何らかの対象を認識するときに、それは純粋なものではない

Xさんに感覚を通じてもたらされたものは、「これはAである」として認識される。

このAという認識を素材として、それに基づいてXさんの理解や判断、推論がなされ、認識の構造が築かれる。

ここで認識を可能にしているものは、純粋な感覚ではない。Xさんが感覚の情報をどのように編集するかは、それまでのXさんの中に築かれてきた認識の構造に基づくものである。

認識を素材として認識構造が築かれ、認識構造によって認識が規定されるわけである。

ここで問題は、Xさんの認識構造が自分の都合にしたがって認識を歪ませたり、あるいは勝手に創ったりしてしまう事態である。こうなるとXさんの認識は対象から閉ざされ、自分の中で閉じてしまう。すなわち独断論


ところで、このような形で認識をし、それに基づいて理解や判断、推論をしているもう一人の主体、Yさんがいたとする。

すると、XさんとYさんとで、同じ対象について異なった認識をすることになる。したがって、それに基づいた理解や判断、推論も異なったものとなる。

すると、このXさんの認識Aと、それに基づいた判断や行動と、Yさんの認識Bと、それに基づいた判断や行動とは、矛盾することになる。

この矛盾を解決しない限り、これまでともすれば「権力」とそれに抑圧される「人々」という図式ではとらえられない、個人レベルの憎しみや闘争、主体と主体との憎しみや闘争が続くことになる。


このような事態を解決するためには、どうすればよいのか?

  1. Xさん、Yさんそれぞれが、自らの認識を、既に自らの中にある認識構造の枠にとらわれないように形成する

    • このためには、中途半端な自らの客観化や相対化ではだめであろう。自らがリアルに感じている認識を否定することは、(本人がそのつもりになるのは簡単だが)生半可なことではできない。

    • 安易な相対主義やニヒリズムはしばしば中途半端なところで認識の客観化や相対化を行い、そこでとどまってしまい、そのことに無自覚であるがゆえ、いっそう罪深い。

    • Xさん、Yさんそれぞれが、自らの認識の絶対性をもはや信じられない地点まで行かなければならない。即ち、「限界線上にあるもの」「器官なき身体」

      しかし、この「器官なき身体」にとどまり続けることは、「独我論」の世界でのみ可能だが、そこから実際に世の中を生きていくことは不可能。


  2. Xさん、Yさんも含む認識構造をある共同原則に基づいて一致させ、矛盾が発生しないようにする

    • これは一見良さそうな方法に見えるが、実はきわめて危険。たとえば「ファシズム」

    • この共同原則がたちまち諸条件の中で古いものになってしまい、この共同原則が自らを変革する契機を、このようなXさんやYさんが持てない以上、結局は「独断論」として、この認識構造が暴走することになる。


  3. (1.の過程を経た上での)第三の方法


この第三の方法について、さらに考えてみたい。

(続)


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