とぜんそう2002年12月分

前月分背番号次月分
02/12/12

きょうの朝日新聞「天声人語」から。

 真実は須(すべから)く美しい。そんな被告の名前とは違って、被告は事件についての説明を拒んだ。そして裁判で明らかになった「真実」は、美しさからはあまりにも遠い。


和歌山の毒物カレー事件被告の名前についての一文だけど、朝日新聞も落ちるところまで落ちたか、と思わせるようなお粗末さですね。こんなのを大学の入学試験に使ったらその大学の見識が疑われてしまうのでは。

「『真実』はみな美しい」と「『真実』は美しくなければならない」ではぜんぜん違いますよ。

02/12/19

仕事帰りにラジオを聞いていたら、大リーグ記録のホームランボールを巡って裁判になったという話題。最初にボールをつかんだものの取り落とした人と、落としたボールを拾った人が所有権を争ったもので、判決はその記念ボールを売って利益(推定1億2千万円)を半分こするように、ということになったらしい。

これを聞いたコメンテーターが「この話を聞いてるうちになんだか『大岡裁き』の『三方一両損』を思い出しましたよ」といって語ったのが次の話。

ある男が二両を落とし、それを拾った男と互いにその金は自分のものだと言い張り、裁くことになった大岡越前が一両を出して三人で一両ずつ分けた、つまり、落とした人は一両帰ってこず、拾った人は一両しか手に入らず、大岡越前も一両出すことになって「三方一両損」、とそんな話だったと思います。この裁判長も自分が6千万円出せばよかったのに。


こんな話をラジオで流していいものかなあ。だいいちこれだと大岡越前は一両出して一両戻ったんだから損なんかしてないし、そもそも「三方一両損」は互いに金が自分のものだといって争ったんじゃないんだからたとえとして出すのがお門違い。

本来の話だと男の落としたのは三両で、拾った金は自分のものじゃないから返す、いったん落とした金はもう自分のものじゃないから受け取れない、と争ったので、それを潔しと感じたからこそ大岡越前は自分が一両出して四両にしたうえで二人に分けさせ、落とした男は一両帰らず拾った男は三両全部もらえず、大岡越前も懐を痛めて「三方一両損」。

ひょっとするとこの人、子供を自分のものだと取り合った女二人の話と混同してるのかな。でも野球のボールを両方から引っ張っても痛がらないしなあ。

そういえば、星新一の祖父が「三方一両損」の話を聞いたとき、「大岡越前はなんて頭が悪い人だ。自分なら落とした男に一両返し、拾った男に一両与え、残った一両を自分が受け取るのに。そうすりゃ落とした方はなくしたはずの金が一両だけ戻り、拾った男は全額返さずにすんだうえ大岡越前も一両手にはいる。『三方一両得』だ」と言ったとか。

この頭の回転、件のコメンテーターとは天と地ほどの違いがありますね。

02/12/30

風邪で寝込んでいたので取り上げるのが遅くなってしまいましたが、中日新聞12月29日付の社説(中日新聞のサイトの「社説」−「バックナンバー」で全文が読めます)は、困難なときほど冷静でなければならず、そのためには多様な言論、報道が不可欠である、として、昨今の北朝鮮関係の報道についてこのように嘆いています。

 北朝鮮の核開発、拉致問題などについて報道する時、テレビのニュースキャスターは極端に緊張します。少しでも日本政府の方針に疑問を呈したり、拉致被害者の意に染まない発言をすると、視聴者から「北朝鮮の味方をするのか」などと非難の電話が殺到するからです。


そして、この雰囲気は先の大戦中の政府の検閲に似通っているのではないか、と話を進めます。

 第二次世界大戦の最中、日本の新聞、放送はすべて政府の検閲を受けました。当然、報道は国策に忠実な内容ばかりで、それに反した報道をすると処罰されたのです。
(略)
 読めば分かる通り、目的は異論の封殺です。検閲でジャーナリストからニュースの選択権が奪われた結果が、あの悲惨な戦争被害でした。

 あれから半世紀余、特に気掛かりなのは、北朝鮮で死亡したとされる横田めぐみさんの娘キム・ヘギョンさん、曽我ひとみさんの夫らとのインタビュー報道への非難です。

 「拉致問題に関する国の方針に反する」「国策無視だ」「北朝鮮の宣伝に乗るのか」などの声がわき起こりました。この反応が情報局の検閲基準に似通っていませんか?


北朝鮮の非道は非道として、さまざまな意見や議論から導かれた結論の方が特定の人物や団体に任せるより過ちを少なくすることができるし、そのために情報や知識を多角的に伝えるのが情報機関の使命、というのはその通りでしょう。本当に多角的に伝えてくれていれば、ですけど。

茶々を入れるのは後回しにして、とりあえず最後まで引用を続けましょう。長くなるけど大事な部分なのでご容赦。

 日本のファシズムを鋭く分析した東大教授の政治学者、故丸山真男さんは「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリストの転向から始まる。テーマは改憲問題」と手帳に書き残しました。

 丸山氏が何を懸念したかは推測するしかありませんが、メモが書かれた一九五六年には、後に撤回したものの鳩山一郎首相が国会で憲法九条に反対を表明し、内閣に憲法調査会が設置されました。背景には朝鮮戦争がありました。
(略)
 難局に直面した国家で偏狭なナショナリズムが台頭し、国民の多くが冷静さを失って禍根を残した幾多の歴史があります。そうなるのを防ぐのは活発な言論、報道がもたらす豊かな情報です。

 再び丸山氏のようなメモが書かれないよう、是は是、非は非としながら異論もきちんと伝え続けます。


「丸山氏が何を懸念したかは推測するしか」ないといいながら「再び丸山氏のようなメモが書かれないよう」とはどういう結論なんだ、というツッコミはさておき、全体としては、我々ジャーナリストはいろいろな言論、報道を伝え続けるぞ、ということのようです。

まず、この人は戦中の状況と現在の状況の何が似ているといいたいのでしょうか。キム・ヘギョンさんやジェンキンスさんへのインタビューを批判する意見も確かに出ましたが、ちゃんとジェンキンスさんとのインタビューを載せた雑誌の編集委員から身分を伏せた上で支持の声も出ていたではありませんか。

いえ、冗談ではなくて、今の日本は戦中のような事前検閲もなければ罰則もない状態なのですよ。「拉致問題に関する国の方針に反する」「国策無視だ」「北朝鮮の宣伝に乗るのか」といった批判は政府の情報局のものではなく「一般国民の意見」だし、報道前ではなくすでに報道されたものに対してなされたのです。また、あのインタビューを報道したことで政府から罰せられた人がどこにいるというのでしょう。

そして、異論もきちんと取り上げるならばあのインタビューに対する「異論」を封殺するようなことをいうのはいかがなものでしょうね。あの社説をそのまま読むと、ジャーナリズムが報道するのは自由だけどそれに対して批判するのは許されない、一般国民は黙ってありがたく報道を受け取っていればいい、と解釈されかねませんよ。

「国民の声」におびえて報道を控えるのでは「ジャーナリズム」ではなく単なる「迎合」でしょう。ジャーナリストみずからニュースの選択権を放棄しているわけですから状況は戦中より悲惨です。

社説のあの結論が本気なら、売り上げや視聴率が落ちることなんか気にしない、気にしない。


前月分背番号次月分
「やまいもの雑記」へ戻る最初の画面に戻る
庵主:matsumu@mars.dti.ne.jp