症例1「電車と新聞」

通勤電車には中学生の時から乗っているので、かれこれ三十年は利用していることになる。その間、混雑を除けば特に不快に感じたことなど無かったように思うのだが、最近は、腹の立つことが多い。

まずは、人を押しのけて新聞や本を読む輩だ。混雑の中で、読書の推奨距離三十センチを確保しようとすると、のけ反るしかない。それと背中合わせになったこちらは、スキージャンプの選手よろしく見事な前傾姿勢を強いられることになる。特に、読んでる人間が年寄りの場合は、老眼のため推奨距離がさらに伸びるので、こちらの体はK点を飛び越さんばかりにさらに前に傾く。押し返してやると、大抵の人間は気付いて読むのを止めるが、年寄りに限って必至に体勢を維持しようと頑張るのである。元気なのは結構なことだが、その元気は他で使って欲しいものだ。電車の車体が、どこでどのような動きをするか、こちらは十分に心得ているので、こういう人間は私の合気道まがいの技で必ずどこかでふらつかせることにしている。相手が、年寄りでもそのくらいはさせてもらわなければ気が済まない。

新聞を持った両手を扉に付き、腕を突っ張ったまま頑として読み続ける大胆不敵な輩もいる。二人分、いや三人分の空間を占有することになろうか。一度あの腕と腕の間に顔を出し、にこりとほほ笑みかけてやろうと思うのだが、さすがにこの手の輩は多くはいないので、まだそのチャンスがない。

人がやっと作ってやった空間を利用して本を読む輩もいる。満員電車で最後に乗るはめになった時のことだ。こっちは閉まる扉に挟まれまいと必至の思いで乗客を中に押しこんでいた。その時、一人の若いサラリーマンがホームを駈けてきて、私が、押してもびくともしない乗客と奮闘している扉の前で止まった。この電車に乗り遅れたら遅刻して先輩にこっぴどく叱られるかもしれない。そうなったら可哀相ではないか。そう思った私はさらに力をこめて乗客を押した。やがて、なんとかその青年も乗ることができ、電車は出発した。やれやれと思った瞬間、なんとその若いサラリーマンはやおら漫画本を取り出し読み始めたではないか。例によってのけ反り、臭い頭をこちらに押し付けてだ。恩を仇で返すとはまさにこのことではないだろうか。

こうした輩を黙って放っておく人間ばかりではない。「そこまでして読みたいか!」と若いサラリーマンを一喝した初老の紳士もいたし、読んでる新聞をひったくり網棚に放り投げた若者もいた。そうされた方はきまって抵抗しない。自分が悪いことは知っているのだ。知っててやるから始末が悪いともいえる。

かくいう私はどうするか。先のふたりほどの勇気はないが、たまに新聞をはたいてやることはある。そんな私も、一度だけキレタことがある。
あれは地下鉄の車内での出来事だった。吊り革につかまっていた私の後ろで中年のサラリーマンが新聞を読んでいた。二つに折りたたんだ新聞の先が時折私の後頭部を軽く突いていたが、始めはそれほど気にかけていたわけではない。
しかし、しばらくするとその突きがはっきりと感じられるようになってきた。そこで、私は振り向き、指先で新聞をぱちんとはたいてやった。後ろから私を睨んでいる相手の顔が窓に映った。相手は、何事もなかったようにすぐにまた新聞を読み始めた。再び新聞の先が私の後ろ髪を逆撫でしてくる。普段温厚な私もついに爆発した。振り向きざま新聞を両手で雑巾のように絞り上げたのだ。

その時、相手がどんな顔をしたか私は見ていない。私の心臓は早鐘のように鼓動し、今にも口から飛び出しそうで、それどころではなかったのだ。私は気を失わんばかりに興奮していた。そう、私はいたって小心者なのである。

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