症例2「電車とリュック」

いつの頃からか、リュックサックを背負う若者が目立つようになった。
リュックといえば、小学校の遠足を思い出す。大好きな千恵子ちゃんと堂々と手をつないで歩けるのは嬉しいが、背負ったリュックの中には、限度額の二百円を超えるおやつが入っていて、それを先生に見付からないかとビクビクしていたものだ。戦争を経験した方には、あの買い出しが思い起こされるだろう。いずれにしても、普段、町中で背負うなどということは、我々には思いも及ばなかったことではある。

そんなリュックを若者たちが背負って歩いている。昔より上等な素材を使い、形もずっとお洒落なリュックだ。両手が空く分だけ活動的だし、何よりも列をなしてぞろぞろ歩く様は、遠足のようでほほ笑ましい光景ではある。

しかし、満員電車の中となると話は別なのだ!
満員電車で、人の胸と自分の胸とが合わさったままの状態になった経験がおありだろうか?おそらくないだろう。まして、腹と腹とが合わさったままなどということは、まずないに違いない。仮にそのような状態になったとしても、何とか体をずらして互いが自分の前に幾ばくかの空間を作ろうとするのが人情(?)というものだ。人間の体を前面と背面に分けると、前面の方が敏感にできているのがその理由だと思うのだが、もちろん私はブラックジャックでもベン・ケーシーでもないので医学的な根拠がある訳ではない。

そして、自分の前に空間をこさえようとするのなら、荷物はその空間に収めようとするのが、これまた人情ではないだろうか。第一、荷物が見えないところにあるなんぞは不安で不安でたまらない。
ところが、若者はリュックを背負ったまま満員電車に乗り込んでくる。そして、ごつごつした中身を人の体にこすりつけて平気でいるのである。余分な空間を占領しているのに、何とも感じないのである。こんな輩の傍に立つと鳩尾のあたりはごりごりやられるわ、背中は押されるわでたまったものではない。こっちは、超音波検診をしているわけでもないし、スキージャンプの選手でもないのだからね!

すべての若者がこうではない。ある時、満員電車で三人の若者と乗り合わせたことがある。いずれも茶髪で、耳にはカーテンリング、ジーンズはヒップボーンをはるかに超えた位置までさげているという手合だ。その中のひとりが電車に乗り込むやいなや、背負っていたリュックを前に抱えた。抱えたといっても肩ひもに両腕を通しているので、まるで駅弁売りのような格好であった。それを見た仲間が、
「みっともねえカッコすんなよ」
となじった。件の若者がそれに何と答えたとお思いか?
「だって、人の迷惑になるじゃん」
こう答えたのである。私は、最初、自分の耳を疑ったが、確かにその青年(ここで、「手合」から「青年」に格上げね)はのたまわったのである(少々、格の上げすぎか)。わたしは、青年の手をとり、「あんたは、えらい!」と感涙にむせびながら何度も叫んだ、とまではいかないが、感動したのは確かである。

日本の未来は、まだそう捨てたものではない。

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