症例3「電車と鼻」

巡り合わせというか、マーフィーの法則というか、電車の座席に腰を下ろした途端、それは必ず起こる。隣の席の客が鼻を掃除し始めるのである。もっと正確には「鼻孔を」である。

サラリーマンであるから、行きも帰りも通勤電車に乗ることになる。ひどく混雑していて座れることなどまずないが、たまに神の悪戯か目の前の座席が空き、腰を下ろすことができる。ここまではいい。これからが問題だ。左か右に座った客が鼻の穴を掃除し始めるのである。人間、たまには鼻がむず痒くなることもある。そんな時は一瞬指で掻く。そのくらいは許されるでしょう。でも、一瞬、ほんの一瞬ですぞ。ひと駅もふた駅もやりっぱなしというのは言語道断ってもんだ。

いつから、こんなジンクスにとりつかれてしまったのだろう。己の運命を恨みつつ、私は鼻掘りに熱中している客を睨みつけるのである。しかし、大抵の場合、何かに集中している人間は目を閉じているので、こちらの険しい視線には気付かない。中には気付く輩もいるが、呆けた顔でこちらを見るだけで、一向に作業を中断しようとはしない。考えてもみて欲しい、鼻の穴に指を突っ込んだ人間と対峙するというのは、まことに虚しいですぞ。

彼はその後どうするか。当然、戦果を指で丸めながら楽しむのである。そして、十分に堪能し終わると、己の脚と脚の間に名残惜しそうにそれをぱらぱらと落としていくのである。お焼香ではないぞ!

ところで、鼻孔を掃除する時に使う指は人さし指か小指と相場が決まっているのをご存じかな。他の指を使っている人間は見たことがない。ところが、戦果を楽しむ指となると親指と中指が多い。いずれの場合も薬指は仲間外れなのである。と、そんなことはどうでもいいのだ。

通勤の途中で、電車を乗り換えるのだが、朝そこに入ってくる電車は、一つ前が始発なので比較的空いている。吊り革につかまると、目の前に小太りの若いサラリーマンが座っている。そいつの前に立ちたくないのだが、なぜか当たってしまうのである。
そのサラリーマンを、私は秘かに「鼻掘りニイサン」と名付けている。このニイサン、すぐに作業を開始するわけではない。十分ほどはおとなしくしている。そして、自分が降りる駅のひとつ前の駅で電車の扉が閉まった途端、お約束のように事に及ぶのである。
戦果が私のつま先めがけ降り注いでくる。それをよけるようにわざと大袈裟に後ずさりしてみせるのだが、ニイサンは気付かない。電車が揺れた位にしか思わないのだろう。まったく、腹の立つ!公衆の面前でみっともないと思わないのか!
ふと見ると、それまでニイサンの大きな鼻の穴に埋没していた指に結婚指輪が。こんな男と結婚している女の気が知れない。待てよ。亭主の留守に、今ごろ家ではその女房も・・・。オエッ!

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