道楽者の成り行き
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1.じょにーは演奏しなかった

2月10日 フランクフルト その2


Wolfgang Rihm


Die Erobernug von Mexico

Musik-Theater(1987-1991)
Nach Antonin Artaud

Musikalische Leitung Markus Stenz
Inszenierung und Choreografie Nicolas Brieger
Buhnenbild Hermann Feuchter
Kostume Jorge Jara
Dramaturgie Jutta Georg/Wolfgang Hofer
Klangregie Peter Tobiasch/Christian Wilde
Licht Olaf Winter
Film Hans-Peter Boffgen

配役
Montezuma Annette Elster
Cortez David Pittman-Jennings
Malinche Michaela Isabel Funfhausen
Sopran Caroline Stein
Alt Elizabeth Laurence
1.Sprecher Stephan Rehm
2.Sprecher Peter Pruchniewitz
Schreiender Mann Uli Wirtz von Mengden



フランクフルト州立歌劇場は私の数少ないオペラハウス廻りの中で最も小さい歌劇場で、感じとしては、日本の新国立劇場中劇場の平土間席をもう少し後方にも増やし、四階分の馬蹄形バルコニーをつけたような造りでして、内部装飾は殆ど無く、青色を基調にしたいかにも戦後造られたオペラハウスでした。

さて、とりあえず開演30分前には建物の中に入ったのですが、まだ場内には入れなかったのでプログラムを購入したり紅茶を飲んだりして時間をつぶしました。それにしてもプログラムの立派なこと、ト書き付きのリブレット全文がついていましたので、記憶の彼方に消え去ったドイツ語を思い出しながら読もうと努めていると、開演時間である19時30分直前になって漸く場内に入場できました。すると、早速CPOのCDの解説にも書かれている通り、観客が劇場に入る最中にこれから始まる世界へ導くかのようにドロドロと小さく太鼓やタムタムが鳴らされていまして、演劇などでは常套手段で珍しくも何ともないんですが、オペラハウスでは初めての経験ということやCDとは違って聞こえるので、先々の楽しみでワクワクするのでした。

さらに、CDでは全く分からなかったことですけど、オーケストラがそれほど広くない場内のあちこちに配置されていまして、まず2階バルコニー正面の前に櫓を組みパーカッション・グループの一団が、何枚ものA3ぐらいの紙から構成された巨大な眼が書かれた幕の後ろに陣取っていました。また、左右のバルコニーの2階席のピット寄りの所にはトランペットが、その同じ高さにピットから組まれた左右の櫓の上にコンボ・セッションが組まれていたほか、3階、4階の「高み」にヴァイオリンやトランペット、フルートの奏者が随所に配置されていまして、これはきっとCDとは違った音響が期待できるぞと思わせるものでした(この期待は裏切られませんでした)。さらに、舞台右手の前列の座席の幾つかはつぶされて青い海原と船の模型が置かれていまして、この比較的小さめの劇場の聴衆の数を余計に少なくしているのでした。舞台に眼を転じると幕はすでにあいていて、場内の基調色である青色に合わせるかのように、そしてまたアステカの色を象徴する青色の舞台背景、そしてコステロの描く人間を細身にしてその骨格だけを取り出したかのような巨大な人型の足場が二つ舞台向かって左側に前後して並んでいました。なお、舞台転換は無くこのセットが最後まで用いられ、その時々のシーンは光と闇、そして青色の色調の差で表現された実に美しいものでした。

しかしこうした楽器群や舞台セット以上に驚いたのは、1階平土間中央に蚊帳をはったようなベッドがしつらえてあって、すでにコルテス役のピットマン・ジェニングス(彼以外に現代物のオペラの歌い手はおらんのか)が横になっていたほか、オケピットと客席の間にしつらえられた渡り廊下のような場所に真紅のドレスの女性(Malince)が麻の上下の男性の上に突っ伏していてピクリとも動かないことでして、こうした意表をつく場内の様子に私を含めて殆どの聴衆が席にもつかず立ったままあちこち眺めているうちに開演を告げるベルがなり、照明が落とされましてようやく場内のざわめきも静まる始末でした。なお、観客の入りですけど、こうした現代物だと予想されるような初日だけ満席であとガラガラという状況ではなく3日目の公演にもかかわらず満席でして、確かここの支配人か何かがドイツでもっとも素晴らしいオペラハウスの支配人かなんかに選ばれていたという話を思い出しました。因みに私の席は、平土間席の11列左から8番目というこの劇場の規模からするととてもいい席でした(お値段は112.5DM、日本の新国立劇場ならば24,000円はする場所です)。

さて、一旦指揮者が入場して拍手、その後直ちに場内は暗くなり、どこからともなく呼び声のような音と見えない合唱団による女性の呼びかけが聞こえると、舞台上を多くの男性がよろめき、振り返り、立ち止まりつつ右へ左へ走っていくシーンからこのMusik-Theaterは始まりました。私の第一印象ですけど、多くの「ファウスト博士」、というのも1999年のザルツブルクでみたムスバッハ演出によるブゾーニのオペラ「ファウスト博士」が同じような格好でよろめいていましたんで。そういえばこの作品の初演をムスバッハは演出していましたっけ。それと「カバン」。なぜかこの後にみた「影の無い女」でも、ラスト・シーンで侍女役のハンナ・シュヴァルツがカバンをもって黙って舞台に出てきてそれに腰掛けて本を開いて読んだ後に去っていくとか、「ラインの黄金」でも神々はカバンを持って右に左にウロウロしていましたし、流行りの小道具なんでしょうか。
そのうちに舞台上の照明がつくと、舞台向かって左手の袖の上方(ほとんど天井近く)につるつるに頭を添って顔を白塗りして首だけを出した女性歌手(sopranのヴォカリーズ)と舞台向かって右手、例の船がある海原から、これまた頭をそって顔を白塗りにして首だけ出した女性歌手(altのヴォカリーズ)が呼びかけあう中、前述の舞台上のMalinchがむくっと起き上がり、これまで乗っかっていた男性の胸から何やら引っ張り出すような動きをしているかと思うと、いきなり心臓(のリアルな模型)を取り出しまして場内は一瞬息を呑む感じでした。ただし私は、新国立劇場でみたブリテン「ベニスに死す」のイチゴの方がもっとリアルでギョッとしたなあとか、そういえばアステカの太陽信仰には、沈んだ太陽はジャガーに食われてしまったので、その復活のために生きた人間の心臓を供しなければならなかったんだよなあとか全く別事を思っていました。因みにこのMalinchという女性は、黙役でダンサーが演じるんでCDだけを聞いていたので作品における役割は分からないんですけど、史実ではコルテスをアステカに案内し、通訳となり、結局アステカ王国を崩壊させてメキシコの植民地化に手を貸した人物でして、メキシコでは裏切り者の代名詞らしいです。

さて、コルテスですが、ほぼ同じ頃に蚊帳から抜け出して舞台上に現れるとモンテズマとの間で応唱を始めるんですが、CDを聞かれた方ならば分かるように、これが応唱になっていない。コルテスがドイツ語で意味のあるセリフを歌っても答えるモンテズマは"A〜"とヴォカリーズですし、一方でモンテズマがドイツ語の意味あるセリフを歌っても今度はコルテスが"A〜"とヴォカリーズになってしまう。二人の会話はSprecherの切れ切れのセリフやMalinchの踊りで受け渡される訳で、このMusik-Theaterで表そうとした幾つかの対立の一つ、異文化(異言語)のコミュニケーションの不成立を端的に示しておりました(なお他の対立の構図については、例えばモンテズマ役が女性にすることで男女間におけるコミュニケーションの問題などもありますけど、舞台を見る限りは、やはり異文化間のコミュニケーション、そして「メキシコ征服」そのものが最大の焦点だと思われました)。

とここまで書いたのですが、そもそも私自身ドイツ語なんぞ聞いて分かる訳ではなく、その上CPOのCDにはリブレットはついておらず、またUNIVERSALから発行されているリブレットも事前には入手できず、CDの英文解説だけを頼りに正直何を歌っているのか分からぬままフランクフルトまで来たのですが、異言語間のコミュニケーションの不成立なぞなんその、演出と音楽が雄弁に作品内容を伝えてくれるのでした。
CDには一応詳細な解説が載っており、一応こんな感じだというのは分かるのですが(それにしても最初のKlugelの翻訳解説は読みづらかった)、「百聞は一見にしかず」、舞台上の演出が全てを明らかにしてくれましたし、それによって音響が実際には何を現しているのかも分かるのでして、お河童に黒いサングラスそして青のレオタードのアステカ兵と白い麻の上下にブーツを履いたスペイン兵が乱闘の挙句にスペイン兵に踏みつけられたり、人型の台場に上ったモンテズマが十字架つきの鎖で絡め取られてしまってモンテズマが虜囚になることや、さらにはSchreiender Mann、全身一糸もまとわぬ姿のスキンヘッドで登場が、コルテスの周りで暴力的な野獣のような語りを繰り広げてメキシコのスペイン化を示していたり、最後にモンテズマとコルテスが「愛と死」(ここはオクタヴィオ・パスの詩を用いている)を歌うシーンで、モンテズマがアステカの青く塗った顔、青いスカート、裸を表現している青いレオタードからコルテス同様に西欧風の白いドレスを着てコルテスに寄り沿うように歌う、まさに西欧に絡め取られてしまったメキシコの現在を象徴するかのようなことが見て取れるのでした。

さらに、舞台演出だけでなくリームの音楽についても、事前の予習で聞いていたのとはこれが全く違って実は面白いものだとわかりました。家で聞くと、若干遠めで低めの録音レベルの中、静かで叙情的な部分や無音の場面も多々ありますし、そもそも「今なんの場面?」ということも気になって正直退屈だと感じたこともありましたが、実演では4つのパート、全部で110分弱を休憩なしで通して演奏されても、日本時間の深夜で直前に飲んだビールやリンゴ酒の睡魔にも負けず、最後まで落ちることなく驚きと興奮を感じながら聞けたのでした。それは、何よりも
起伏に飛んだメリハリある舞台の効果でもありますが、当たり前ですけど、例えば、モンテズマの叫び一つとってもCDだとただの高音でしかないのが実演では空間を音が切り裂く様がリアルに聞こえますし、CDでは全くその当たりの音響設計の凄さが伝わって来ない、CD2トラック5、ここは戦闘シーンです、フランクフルト州立歌劇場内が巨大な鋭い音響と軍靴のような音で満たされましたし、ともかく、弱音であれ強奏であれ場内を包みこむ音響等の空間性(スピーカーも使用)や、演出の視覚的効果までも含めて考えられた作品、まさにMusik-Theaterだということが来て見て初めて分かりました。実に「これは凄い見物だった」訳でして、私だけではなく、非常に多くの着飾った老人達も含めて満席の場内はブラボーの嵐となっていました。なお、カールスルーエ出身のジャガイモ顔の作曲家も臨席して挨拶していました(93年にベルリンでアバド指揮BPOのヘルダーリンの歌曲を聴いた時も感じたのですけど、リームの人気というのは日本では考えられない程あるのでした)。

ホテルへの帰り道で、こんなことなら14日にドレスデンでシノーポリの振るヴェルディ「レクイエム」にせずに、体調万全にして14日の上演にも来るんだったと後悔しましたよ、CPOの録音が恨めしい限りです。


ご参考までにプログラムにつけられていたこの曲の上演史をつけておきます。

1992年9月2日(初演) ハンブルク州立歌劇場 P.ムスバッハ演出、I.メッツマッヒャー指揮(CDあり)
1993年3月20日    ウルム州立歌劇場 K.ワタナベ演出 A.Mounk指揮
1994年11月26日    ニュルンベルク歌劇場 W.Quetes演出 S.Lano指揮
1997年4月12日    フライブルク劇場 G.Heinz演出 F.Beermann指揮

こうしてみてみると、日本の「オペラ・ファン」の話には登らないような地方の劇場での繰り返しの上演こそが、この作品に限らず過去の諸作品も含めて、歌唱・演奏・演出の厚みに繋がっているんでしょうねえ。




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