第1部「紫式部の穴」(1)
「おとうさま、わたくし、就職いたしました」
「なに、就職とな? 神々の父、ゼウスの姫が就職? なんと嘆かわしい! いいか、アテネ、わしは実にたくさんの子供をこさえた。あんまりたくさんすぎて、まったく顔を知らないやつもおる。そんな大勢の子供たちのなかで、娘よ、おまえをいちばん信頼し、愛しておる。なぜならおまえは知恵も腕力もすぐれておるからじゃ。おまえこそはわしの『後継者』だと思ってきたんじゃ」
「おとうさま、わたくし、『堅気』になりたいんですの」
「それは……」
「人間どもの弱味につけ込んで、得体の知れないビジネスをするのは、気分がよくありませんわ」
「ふーむ……。弱ったのう。わしはおまえには弱い。……で、いかなる仕事に就いたというのじゃ?」
「書類の整理よ」
「いわゆるOLというやつか」
「でもね、おとうさま」
「あー、みなまでいうな。アレを発見したというんじゃろ」
「そう」
「それで、その『穴』は、いったい『誰になれる』穴じゃったんじゃ?」
「誰だと思う?」
「まさか、在原業平というんじゃないだろうな」
「ブー」
「清少納言か?」
「正解は、紫式部よ」
「なんと!」
*
こよいは月の明かりが十分でない。紙が灰色に見える。ああ、紙……。わたしはこうして手をすべらせてみる……なんて、なめらかなよい気持ちなの? あたたかく、やさしくわたしを包んでくれるよう……ふふ、あの人の腕のなかを思い出すわ……あの、「お」の字のつく男の。妻子持ちだった……ふん、そんなこと、この世界ではカンケイあるものか……。ああ、それにしても、なんて重い髪。頭を洗いたい。でもいまは秋、川原の水も冷たいわね。もう今夜は執筆はよして、寝ちまおうかしら?
秋の夜の明かりに濡れし黒髪を乱した男いづこ旅する
……なんて言うか、自分のなかに不思議な力が宿ったような気がした。二千年の時の彼方から、誰かがやってきて、自分のなかに忍び込んだような……。庭の木々も月明かりも、どこか違ったものに思えた。違った形の木、違った形の空気。自然、体じゅうに力がみなぎって、なんでもできるような気がした。
*
彼はセルフサービスの棚からベーグル・サンドを取り、レジのところでコーヒーを注文し、新聞を素早く脇に挟むと、片手でトレイを持ち、空いている席を見つけ、テーブルにトレイを置くと、椅子を引きながら、さっきからトレイを持って自分のあとをつけてくる女の方を振り返って言った。
「どこかで会ったことあったかな?」
「『どこかで会ったか』って? よくそんな口がきけたものね」
彼は女に顔を近づけてじっと見た。
「これはこれは、ゼウスのお姫さま。……3000年も経ってるんだぜ。いいかげんにかんべんしてくれよ」
彼が席に着くと、許しも乞わずに、女も目の前の席に座った。
「誰のおかげで、愛しい妻のもとに帰れたと思ってるの?」
「よけいなおせっかいを」
「それでは、帰りたくなかったっていうの?」
「帰らなければ、物語のしめしがつかないからだろう」
「あら、私が書いたんじゃないわ」
「きみが書かせたも同然さ」
「いま、『きみ』って、言ったわね」
「それがどうかした?」
「なんかやけに親しげに響いたわ」
「気のせいだろ。とにかくオレを」
彼は、サーモン色のスモーク・サーモンとレタスがはみ出したベーグル・サンドに食いつき食べ始めた。口を動かしながら、「ストーキングするのはやめてくれよ」
「まあ!」
「そりゃたしかに、オレはあんたの世話にはなったよ、けど、ン年も前のことじゃないか。ン年も経てば、状況はいろいろ変わってるんだぜ」
「つまり、私のような女はタイプでないと……」
「そういうカンケイじゃなかったはずだろ?」
「ン年も経てば、状況はいろいろ変わる……」
男はいつのまにかベーグルサンドを平らげ、コーヒーも飲み干し、席をたっていた。アテネが「あっ」と言う間に外に出、雑踏の中に消えて行った。アテネは追いかけようとしたが、食べ物の盆を持った老婆にぶつかりそうになり、その拍子に、老婆の盆の上のコーヒーがこぼれた。「ひぇーっ!」老婆は、悲鳴をあげた。なんてこった! 訴訟を起こされるかもしれない! そうしたら、また何年も時間を無駄にする! 知恵と戦いの女神としたことが……。
「おとうさま、わたくしって、しつこい女かしら?」
「…………」
「もう、おとうさまったら、眠ったふりをして……。まったくアタマに来ちゃうわ、勝手に私を生んでおいて。一説によれば、私はあなたの頭部から、鎧を着た生まれて来たっていうじゃないの。ほんとう? 私には、ほんとうに、母親がいないの?」
「…………」
「もう……へそだして、寝てると風邪引くわよ。ねえ、おとうさま、あの男は全然私を見てくれない。『そういうカンケイじゃなかったはずだろ』だって。そういうカンケイでない人間が、命をかけて守ってやったりするかしら? あいつ、全然わかってないのよ」
*
読経の音が、屋敷の中の遣り水の流れとかさなって聞こえる。ここは一日中、それが絶えることがない。なぜって、いま、わたくしのお仕えする中宮さまは、ご出産の準備に入られているから、いろんな坊さまが入れ替わり立ち替わりやってきて、いろんな経を読んでいくんだわ。人々はそのことにかかりっきりで、まるで、国家の一大事みたい。そう、まさに、国家の一大事だわね。こどもを産むって。それも、天皇のこどもをうむって。──でもあたくしは、正直いって、そんなに真剣になれない。たかが──、こんなふうに思うのは、不心得者に違いない、だけど、たかが、女がこどもをうむ、それだけのこと。中宮さま20歳。若いけれど、とても聡明な方。あたくしとは、親友みたいに接してくださる。だから、その「お友達」が、少しでも苦しくないようにと、願うことは言うまでもないことだけど。それとは少し違うの。なんて言うか……反逆してみたいのよ。反逆。その言葉を思い浮かべるだけで、衣の下の肌が汗ばむ。ああ、おとうさま。父は、あたくしの父もまた、女のあたしに、そんな言葉をしか、教えてくれなかった──。あたくしもまた、アテネのように、母の顔を知らず、物心ついた時から、漢文を読んでいた。あたくしは、兄よりもよく、学問を身につけてしまい、しぜん、父は、あたくしに望みをかけるようになった。それは、「反逆」のためだろうか? 女がただ天皇のこどもを産む道具にすぎない時代に。
産褥の赤き血糊は秋の日の読経を吸ひて明日の時見む
*
「とうさん、おれ、とうさんと同じ組織犯罪課に配属になったよ」
「ああ、テレマコス。星の研究をしてくれるものと思っていたのに」
「組織犯罪は、ますます巧妙になって、弱者を食い物にしている。それが許せないんだ」
「おまえはまだ青い」
「とうさんだって、その仕事をしてるじゃないか」
「これは……」
*
わたくしが家庭教師としてお仕えしている一条天皇の中宮、彰子さまは、いま出産のため、お里である、土御門殿(つちみかどどの)に帰っていらっしゃいます。従って、わたくしもそこにおり、わたくしの居室は、屋敷の北東、東の対と呼ばれる建物と、母屋に相当する寝殿の中間、ちょうど遣り水の流れを跨ぐ、渡り廊下の端に設けられた部屋でございます。屋敷はとても広く、さまざまな木立や植物が茂り、まるで林のなかにいるようです。この頃は、中宮さまの安産を祈願して、名のある坊さまが大勢いらっしゃって、屋敷の各所に設けられた「壇」で、入れ替わり立ち替わり、引きもきらさず、お経をあげておいでです。また、中宮さまにまじないもしてさしあげます。
広い、とはいえ、でもここは、ギリシアとは違う。どこまでも空間が延びていった、あのかぎりない拡がりとは違う。ここは、ちょうど屋敷のなかに森や林や池があるようだ。すでになにかの、「入れ物」に入っている感じ。少し行ったら、「囲い」が見えそうな感じ。映画の、セットのような感じ。そのセットのなかで、われわれはお芝居をしているような感じ。
荒らし吹くギリシアの海のポセイドン君は知らない箱庭の国
よっぴいての読経が終わり、僧たちが、屋敷内を移動し始めた足音が聞こえる。戸の隙間より流れて来た朝の冷たい空気に頬を撫でられ、目を覚ました。寝具を払い除け、戸のそばにより、外を見ると、すでにりっぱな装束をつけた中宮さまの父上、藤原道長さまが、供のものをつれて庭をお歩きになっていた。女郎花が盛んに茂っている。道長さまは、わたくしが見ているのに気づかれると、女郎花を一枝折って、木丁の上からそれをのぞかせになった。わたくしは慌てて机の硯に寄って、昨日までの原稿を払い除け、新しい紙に筆を走らせた。
白露は分け隔てするwominafesi三十五歳の朝はサイテイ
戸の間より歌を書いた紙を差し出すと、「おお、もうできたのか、早いな」とおっしゃられて、「どれ、硯をこちらに」。紙と硯をお渡しすると、さらさらと、白い紙に、黒い墨が染みて文字をなしていく。
白露は分け隔てなどするものか女郎花とは心のありかた
ねえ、wominafesi という言葉のなかには、womanって、言葉と、feminin って、言葉が入っているように思わない? 事実、「をみなへし」の、「をみな」は、「美女」を、「へし」は、「脇へ押しやる」「力を失わす」という意味があるんですって。つまり、美女など脇へ押しやってしまうほど美しい、という意味よ。
*
「おとうさま、わたくし、あの男をモデルにして小説を書こうと思いますの」
「そんな物語ならすでに存在しておるぞ」
「ホメロスの『オデュッセイア』のことを言ってるのかしら?」
「アレキサンドリアの図書館にな」
「私の物語はもっと違ったものになるでしょう。絶世の美男子が、女から女へと渡り歩く物語よ」
「それのどこがあの男と関係あるのじゃ? あの男はなるほど、『神にも見まごう』と、ホメロスのやつめが大げさに書いておるが、絶世の美男子というわけじゃない。そりゃちょっと、『女ずき』はするかもしらんが。言ってみれば、あの男の物語は、『冒険小説』だ」
「そうかしら? 私は『愛の物語』だと思うわ。彼が愛した女は、ざっと数えただけでも、ペネロペイア、カリュプソ、キルケー、ナウシカア……ヘレネ」
「おいおい、ヘレネは……」
「求婚したでしょ? ペネロペイアと結婚する前に。だからトロイアにも、行かなければならなかったのよ。あの男の災難は、言わば、『身から出た錆』よ!」
*
しめやかな夕暮れ、同僚の藤原豊子さま(道長さまのご兄弟、大納言道綱さまの娘さんで、中宮さまとは、従姉妹に当られるのだけど、彼女も、中宮さまの教育係の女房として、彰子さまにお仕えされていた)と、とりとめもない話をしていると、道長さまの御長男、頼通さま、御年17歳が、簾を引き上げて顔を覗かせた。おとなびた口調でこんなふうにおっしゃる。
「女性というものは、心遣いが難しいものですね」
あらま、わたくしの小説をどこかでお読みになったのだわ。まだまだ子供だと思っていたのに、いったいいつのまに……。しかしわたくしたち、オバサンの話の中には入って来ようとはなさらないで、
「昔の歌に、『女郎花咲いてる野辺に宿とれば浮気男と噂がたつよ』、こんなのがありますよね」
そんなふうにおっしゃって立ち去られた。うーーーん、ませたガキ。
思い出すオリーブの香と月桂樹湯上がりのきみ回想の日記(にき)