青い
第8部「青い花」(2)


 雨が降っている。私が記すこの「日記」もすでに「終わり」である。日記などに終わりというものがあるのか? これは、日記ではない。日記を装った回想録である。もちろん、当時のほんとうの「日記」=メモはある。寛弘7年1月15日、一条天皇の第三皇子、中宮彰子所生二の宮、敦良(あつなが)親王の五十日(いか)の祝いである。女房たちの衣装の配色、わが娘が親王を二人産み、栄華の頂点にある藤原道長さまのお爺さまぶり、宮廷の音楽、あいも変わらずの、道長さまの従兄、右大臣藤原顕光(あきみつ)(65才)の、酒の席での失態……。
 めでたい。なにがめでたいのか? いずれ、これらは、土くれになっていく。そうでなくても、この雨がすべてを押し流していく。
 おかしなもんだわ。私は、べつの世界で、戦いの女神だった。それはおそろしく古い時代の、おそろしく古い国の戦争だった。そもそも、その始まりはなんだったのか? なんでも、世界一美しい女が、ある国の王子にさらわれたことが原因だったとか。戦争の原因など、なんとでもなる。きっかけなど、むしろ、他愛ないものだ。それ以前に、戦いは用意されていた。すなわち、あの国の、富、人手、黄金が目当てだった。でも彼らは、そんなことさえ意識していたのか? むしろ戦いは、神々のゲームのようなものだった。そこで、私ときたら、雄々しく戦ったものだわ。どんな強者も、私に敵う者はいない。で、結局、その国は滅びた。しかし国は滅びても、必ず脱出する人々がいる。そうして、苦難の旅を重ね、べつの土地に、国をつくる……。その時に必要なのは、また、べつの神々?
 21世紀の大都会の、コーヒー・ショップのカウンターで、紫式部はコーヒーを飲み干してひとりごちた。
 「あいかわらずのレキシですか?」
 式部が手にしたコーヒーカップの中を覗くと、空になったカップに、コーヒーがなみなみと注がれたところだった。傾けられたポットの先を辿っていくと、壁に取りつけられたテレビ画面に顔を向けたままのウェイトレスがいた。式部は再び自分のカップに視線を戻し、コーヒーがカップの中のちょうどよい位置で止まり、一滴もこぼれてないことに感心した。
 (プロだ!)
 「そう、レキシが私の心を暗くするの」
 「もし彼があれ以上ハンサムだったら、それこそ犯罪だわ!」
 ウェイトレスがテレビ画面から目を離さずに言ったので、式部もそっちの方を見た。甘ったるい顔をした俳優が聴診器を首からかけて、こちらを見つめながら、何かしゃべっていた。
 「どこかで見たことある顔だわ」
 「え?」
 やっとウェイトレスが正面の客に顔を戻した。
 「あの俳優」
 それから雨が降り続けた。雨はすべてを押し流していった。テレビもコーヒー・ショップも。式部とウェイトレスは、泥水の中を一生懸命に泳いでいた。
 「もう私はだめ」
 どちらからともなく言った。何度も泥水に飲み込まれそうになりながら。そんなことを口走る余裕があったのか? そして暗い水の底に沈んでいき、それでももがいていると、どこかから一艘の小舟が流れてきた。二人はやっとのことでその舟をつかまえ乗り込んだ。力尽き、舟の底に倒れ込んだ。二人は重なるようにして眠り続けた。式部は、夢のなかで、例のテレビドラマに出ていた甘ったるい顔をした俳優が主人公の恋愛物語を執筆していた。彼の恋の遍歴の物語だ。それは長い長い物語だった。ウェイトレスは、女神になって空を飛んでいる夢を見ていた。雨は止み、日が照り始め、やがて、水は退き、泥に被われた地面が姿を現した。そこには……

 『イリアス』最終章はこんなふうに終る。兄弟のような戦友パトロクロスの仇、トロイアのヘクトルを討ち取ったアキレウスは、その遺体を馬車につけて、パトロクロスの墓の周りを回り、見せしめとする。その後、犬か鳥に食わすつもりでいる。さすがの神々も、いくらなんでも、それではヘクトルがかわいそうであると、干渉することにする。すなわち、アキレウスには、女神である母から、ヘクトルの遺体を返すように忠告させ、トロイア側へは、ヘクトルの父で、トロイア王であるプリアモスに、たっぷりの身代金を持って、遺体を引き取りにいくように、ヘルメイアスを遣わす。すべて、ゼウスの差し金であるが、ここで目につくのは、神々の使者、ヘルメイアスの活躍である。彼は、ギリシア側の高貴な生れの若者に化けて、プリアモスと「出会い」、ギリシア側の兵士に見つかることなく、無事、アキレウスの陣屋に、プリアモスと伝令を送り届ける。
 プリアモスも伝令も年老いている。老齢の者、二人だけで遺体を引き取りにいくようにというのは、ゼウスの考えである。陣屋で、プリアモスの姿を見たアキレウスは驚くが、プリアモスのプライドを投げ打っての心からの嘆願に心を動かされ、また、愛する者を亡くした悲しみは同じと、老王を歓待する。
 ここで、いわゆる近代戦しか知らないわれわれが驚くのは、敵同士の者が、あるいは、加害者と被害者が、自ら殺した息子の遺体を返すという話が成立したのち、ともに食卓を囲むことである。アキレウス曰く、
 「どんなに辛い目にあっても、食事のことは忘れんものです」
 プリアモス曰く、
 「実は、息子が死んでから、悲しみのあまり屋敷の庭をのたうち回って、ろくに食事も喉を通りませなんだ。ひさしぶりで取る食事です」
 そして、アキレウスは、「客人」のために、「銀色の羊」を屠り、部下が皮を剥いて、肉を串刺しにしてよく焼き、アキレウスがそれを切り分けて供する。ワインとパンも出る。古代ギリシアでは、食事と言うと、すぐ、家畜を殺し、肉を焼く。死者を弔うための食事も、神さまにお供えする食物も、「焼肉」である。彼らの便は、臭くて黒くどろどろだったのではないかと、訝ってしまう近代人の作者である。
 さて、アキレウスの陣屋に息子の遺体を引き取りに行った老王プリアモスであるが、さらに驚くべきことに、アキレウスの勧めのまま、そこに「泊って」いく。アキレウスは気をきかし、入り口に近い廊下に、老人二人の床を作らせる。ベッドには紫色のシーツを敷き、毛織物の掛け物を用意する。いい気になって眠り込んでいるプリアモスのもとに、神々の使者、ヘルメイアスが訪れる。
 「プリアモスよ、いい気になって眠っている場合ではない。アカイア勢が気がつかぬうちにここを発つのだ。私とて、そうそう目立って味方もできぬ。というのも、神があからさまに、一人の人間を味方したというのであれば、まずいからな」
 そう言われて、大急ぎでプリアモスは息子の遺体を載せた馬車でわが城へ帰っていく。遺体は、アキレウスが女中たちに言いつけて、洗い、オリーブ油を塗り、プリアモスの持参した清潔な下着と衣類が着せてある。神々によって守られていたヘクトルの遺体は、少しの損傷もなく、腐ってもいない___、とまで、ホメロスは記す。そして、待っていたトロイアの人々、家族、友人たちによって、心ゆくまで嘆かれ、荼毘に付される。住民たちが、火葬するための薪を山から運び込むのに9日間、火葬に1日、……ふたたび戦いを始めるのは、12日めからにしようと、アキレウスが約束してくれた。このようにして、ヘクトルの葬儀は営まれた、と、『イリアス』は終る。
 しかし、トロイア戦争が終ったというわけではない。ここには、例の「木馬」のエピソードもない。その後のトロイアの人々の運命も書かれてはいない。そして、ホメロスは、「その後」の、トロイア戦争の一大将にすぎなかったオデュッセウスの物語を始める。「その間」のエピソードは、ギリシア悲劇などの個々の作品のなかに散らばっている。あるいは、3世紀の、クイントゥスという(ホメロスと同郷の)「詩人」が、トロイア崩壊までを詳しく描いている。すでに滅びてしまった者たちにとっては、どうでもいいことだが。

 「そこには青い花が、そこかしこに、咲いていたというわけだな」
 「小さな、ですわよ、お父さま」



       ___完___





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