青い
第8部「青い花」(1)


 「おとうさま、この物語もいよいよ大詰めを迎えましたわね」
 「この物語って、どの物語だ?」
 「『イリアス』ですわ」
 「おお、そうじゃ。ついに、トロイアの勇将ヘクトルも死んでしまって、ギリシア側は、アキレウスの盟友パトロクロスの葬儀だ」
 「この火葬の模様が妙にリアルですわね。遺体を焼くのに、木で枠組みを作った上に置き、20世紀だと灯油かなんかをかけるのですか? その代わりに、牛や羊を殺して脂身を取り出して、ごっそり遺体の上に載せる……。これが、言葉は悪いんですけど、『たきつけ』ですわ。ついでに、馬4頭も火のなかに投げ入れ、パトロクロスがかわいがっていた犬9頭のうち、2頭も彼の死出の旅路のお供をさせた。それから、トロイア人12人もいっしょに……」
 「古い時代というものはな、往々にしてそんなもんじゃ」
 「いったい今までに、どれだけの人間が死んだのでしょう?」
 「ううむ。それは、天文学的な数じゃな。あきらかに、『いま生きとる』者の方が少数じゃ」
 「歴史というものは、死者たちの世界の再現ですわね」
 「歴史が、そなたの心を暗くする……のじゃろ? 娘よ」
 「私の心を暗くするのは、さしあたって、無礼にもわたくしの神殿で、トロイア王プリアモスの娘、カサンドラをレイプした小アイアスですわ。私が神殿の床を揺らして、警告を与えたにもかかわらず、無視して行為を続けた恐れを知らぬやつ。おとうさま、ぜひ、この男には思い知らせてやりたいと思います」
 「よかろう。それでこそ、わが娘。私の武器を持ってゆくがいい」
 アテネは父の武器を携えて、ある場所に立つ。そこは、ギリシア軍が脱出を図った葡萄酒色の海の上ではない。そこは、ある寺の門前……。
 法華宗の大本山である本能寺は、日隆によって1415年に創建されて以来、4回その場所を変えている。例の「本能寺の変」を挟んで、75年に一度大火に遭っているという。21世紀の本能寺は、1589年に豊臣秀吉によって移された場所に、1928年に建て直されたものである。本堂の壮大な伽藍、「信長会館」の清潔な水洗トイレといい、この宗教法人が今も豊かであることを示している___。
 しかし、いま、アテネの立っているところは、まさに、「本能寺の変」の時の本能寺、21世紀の本能寺よりはるかに広大な敷地に建つ、城とも見紛う本能寺である。当時、キリスト教の布教活動のため来日していたポルトガル人のイエズス会士、ルイス・フロイスの「日本史」によれば、本能寺は事実、僧侶のいる寺ではなく、信長の別荘のように使われていた。彼によれば、信長は、神も仏も信じなかった。ただ、異邦人であるキリストの司祭たちに対しては、なんぴとも危害を加えたり、妨害したりすることのないようにとの触れを出し、保護していた。フロイスはそのことを認め、また、信長を才能のあるすぐれた武将と評価しながらも、神をも恐れぬその慢心ゆえに身を滅ぼした、と手厳しい。信長に反逆した彼の懐刀とも言える家臣、明智光秀についても、同じような評価を下している。
 フロイスはキリスト教徒ゆえに、万事その視点から、当時の日本の出来事を見るのはしかたがないとして、その著書は、それらからはみ出してしまうほど生々しい記述に満ちている。信長が、自分に逆らう者とその一族の末端までを、どのような方法で処刑したか。あるいは、彼自身が、手薄の本能寺でどのように殺されたか。そうだ、彼は「殺された」。日本に流通する主な「歴史」によれば、光秀率いる一万の兵士に、本能寺を包囲されたと知った信長は、自ら御殿に火を放ち、一室に籠って切腹したことになっている。これは、信長の名誉を守るために作られた「歴史」かも知れない。フロイスは、信長が朝、裸になって、顔を洗い体を拭いているところを、背中から明智の兵士に弓で射られた、その弓を引き抜き、長刀(なぎなた)で応戦しようとしてみたものの、腕に銃弾を受け、その後、切腹した、という説もあり、焼死したという者もあり、実際はどのように死んだのか定かではない、ただ火事があまりに激しかったので、すべては灰に帰し、髪の毛一本残さなかった、と記している。確かなことは、信長はそこで死んだ、ということだけだ。
 一方、明智光秀は、信長の家臣の城であった勝竜寺(しょうれんじ)という城を占拠していたが、彼を追撃する信長の三男、三七殿と羽柴秀吉に追われ、自分の本拠地である坂本城まで、徒歩で逃げ出す途中、追い剥ぎとも暴徒と化した百姓ともつかぬ者に金品を騙しとられたあげく、刺殺され首を刎ねられた。その死骸は、信長の殺された場所まで運ばれた。そこには、命令によって集められた、信長供養のための(謀反を起こした側の)武将たちの首が、数千個も積まれ、耐えがたい匂いを発していたという。信長の三男は、明智の首と体を繋げ、裸にして、市中の一番人通りの多い場所に晒したということである。
 いずれにしろ、「戦国時代」というものは、天下を取るにしろ、反逆するにしろ、割の合わないものである。そのような戦いが、すでに時代遅れのものとなり、切った張ったも殉死も許されない時代、武士が退屈なお役人業務となった時代に、山本常朝は、部下に20年に及ぶ武士生活から得られた「心得集」のようなものを語り、その部下がそれを出版した。それは、『葉隠』と題する書物であるが、その本には、「武士道とは死ぬことと見つけたり」と書かれている。1953年生まれのアメリカの映画監督、ジム・ジャームッシュは、その本をどう読んだのか。いたく感動し、ある殺し屋の物語に使った。フォレスト・ウティカー扮する一匹狼の殺し屋は、英語版『葉隠』を愛読書とし、その精神を人生哲学としている。この殺し屋は、一匹狼であるが、上のために殉じることを夢見ている……。そしてその夢を、ついに実現する。

 The way of the samurai is death.

 この言葉は、この言葉が生み出された当時にあっては、すでにアナクロニズムを免れない言葉であったが、フロイスの生きた「戦国時代」の日本には、皮肉な意味において、ふさわしい言葉である。

 それは、1582年のことであった。トロイア戦争から2500年も経った時代。ヨーロッパ人が富みを貯えに、世界へと乗り出していく時代。スペイン人がインディオを収奪し、その後の奴隷貿易へと繋がる時代。

 「果たして、どの時代がいちばん残酷なのかしら?」アテネは、1582年6月20日の早朝、本能寺の門前にいて、その門番の兵士に迅速な死を与えた。ホメロスが、「黒い死が彼に訪れた」と描くところの、どちらかといえば、やすらかな死である。
それから、その内部にいるものすべてにも、同じような死を与えた。
 「私って、死の神じゃないんだけどね」父ゼウスが与えてくれた武器である、稲妻、雷、雷鳴を駆使して、その豪壮な御殿ばかりか、その街すべてを阿鼻叫喚の地獄に変えた。
 はるか未来の異国の街の地獄を目の当たりにしながら、小アイアスは、荒波に揉まれ、何度も何度も塩辛い海水を呑みながら、するどい岩に体を切り刻まれ、しだいに力尽きていった。しかしその惨めな状態とて、彼が垣間見ている未来の異国に起った、ほん数十年ほどの「歴史」に比べれば、はるかに「のどかな」ものであった。第一、ホメロスは、たとえ死者がいたぶられようと、のどかな世界しか描かなかったし、1000年後にホメロスと同じスミュルナに現れた詩人、クイントゥスが描いた、ヘクトル亡き後のトロイアも、滅びてはゆくものの、どこか牧歌的な美しさを湛えている。そこでは、湿度の関係からか、遺体は腐るより前に干からびたようだし、テクノロジーの問題から、それほど多くの人間をいっぺんには殺せなかった。

 「でも私が生まれて以来、人は戦わなかったことは一度としてなかった。そして戦いは、いつも、名誉のため、などとうそぶきながら、ほんとうは、収奪のためなのだ。人はいつも効率よく、より高価なものを手に入れたがる。そして揚げ句の果てが、われわれ神のまねをしたがる……。お父さま」
 「だからおまえは、21世紀の街で、就職したと言うわけだったな」
 「はい」
 「して、ファイリングには慣れたかな?」
 「それが……。今はべつのことをしております」
 「なんと? 前の会社はどうした?」
 「いろいろありまして、リストラされる前に、おん出ました」
 「で、今は、何をしておるというのじゃ?」
 そういってゼウスが目を上げると、赤と白のチェックのエプロンをかけたわが娘が、コーヒー・ポットを傾けて、彼のカップにコーヒーを注ぎ、見知らぬ中年女のように営業的な愛想笑いをしかけてきたのだった。





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