青い花

第1部「紫式部の穴」(4)


 式部は、天皇が道長邸を訪れ、わが子に会う儀式を、屋敷の廊下より眺めている。手には白檀の薄板を綴じて作られた扇を持って、顔を隠している。その板を通して、そっと、天皇の女たち、宮仕えの女房たちの、容姿、衣装のセンスを観察している……彼女にとって、儀式などどうでもいい。日は、ゆっくりと傾く……思わず彼女は目眩を感じ、扇の陰で目を閉じ、扇を強く鼻に押しあて、白檀の匂いを鼻腔いっぱい吸い込む……再び目を開け、扇の陰から視線をやると、すでに夜で、きらびやかな明かりが目に入った……聞き慣れない音楽、銀の盆を片手に、行き来する男たち……その盆の上には、宝石のように光輝く器が載っている。縦長の透明な器には、黄金色の液体が入っている……式部は激しい喉の乾きを覚え、手を伸ばす……黄金色の液体の入った透明な器を取り、口に運ぶ……黄金色の液体は、想像以上に、美味であった……式部の喉が動く……ごくごくと飲み干し、空の器を戻そうと、盆を持った男に近づく。男はそれに気づき、盆を低く下げ、彼女がそれに、空の器を載せると同時に、盆の上のもう一杯を差し出す。式部はその手際のよさに驚き、男を見る。
男も彼女を見る。青い、月の光のような、男の目に、息を呑む。
 「どうかいたしましたか、お嬢さま?」男が耳もとでささやく。低い、地から響いてくるかのような声。かつて、私の国に、このような声を出す男がいたかしら? 式部は口がきけない。ただただ、男の目を見つめるのみ。
 「どこかでお会いしましたか?」
 式部は口を開くが、出て来た言葉は自分でも意外な言葉である。
 「女のわたくしから、このようなことを申してよいのかどうか、わかりませぬが、あなたと寝たく思います」
 「今すぐに、ですか?」
 「はい」
 「ここで?」
 「ええ」
 「人がおりますよ」
 「では、あちらの茂みへでも」

 月あかりに激しき息を吐きかけてわれは異国の男かき抱く

 「なんだ、あの女は、われわれ神の許しもなく、勝手なことをしておるぞ」
 「これは、大地を揺るがすポセイドン、あれは、娘のアテネが『穴』で見つけた、異国の女じゃ」
 「なに、『穴』とな?」
 「西暦2000年のオフィスに開いている穴じゃ。しかし、あの女の生きる時代は、西暦1000年代じゃ」
 「なんとまあ、時の神の気紛れか」
 「いずれにしろ、あの女の国では、神は弱い存在となりつつある。あの女の国は、インドの仏に支配されつつあるぞよ」
 「どうりで、慎みを欠いておる」
 「構わぬから、あの女の国を粉々に叩き潰して、海に沈めて、跡形もなくしてやれ!」

 凄まじい雷が鳴り、パーティー会場は、滅茶滅茶に破壊された。人々は悲鳴を上げて、室内へ逃げ込んだ。茂みの中の二人だけは、雷をものともせず、自分たちの行為に没頭し続けていた。

 嵐はさらに激しさを増し、さすがの二人も、行為に没頭し続けるわけにはいかなくなった。建物の中へ逃れるべく近づこうとするのだが、風の力に押し戻され、一向に近づくことができない。真っ暗な空には雷鳴が轟き、時折、雷火が風になぎ倒された木を燃やした。このままでは二人はここで命がつき、互いの時間へ帰れなくなる___。目に入り込んで来る雨粒を拒みながら、式部は書きかけの物語のことを思った。あれを、完成させることはもうできないのだろうか? いや、どうしても、私には、書きたいことがある……そう心に思って目を開ける……。闇の中、稲光に照らされては銀色に光る雨の中に、すっくと立っている人がいた。式部は目を見張った。その人は、前身に金色に光るものを身にまとっているように見えた。だが闇がすぐにその像をかき消した。次の稲光を待って、目をはっきりと開けて、見た。その人物は金属の鎧と兜を身につけていた。鎧の人は、雷鳴轟く真っ暗な空に向かって、雷鳴に負けない声で叫んだ。だがその声は、透きとおって美しかった。
 「おとうさま、いいかげんになさってよ! オデュッセウスの子、テレマコスを誘拐し、オデュッセウスを、小汚いレストランに呼びつけて、私と結婚しろだなどと脅しをかけ、神々の父ゼウスともあろうものが、チンケなマフィアの真似をして、いったいどういうおつもり? それにポセイドンの叔父さままでが、悪のりして……」
 すると稲光がいっそう激しくなり、地響きのような声が返って来た。
 「娘よ、わしはおまえのためを思ってしたのじゃ。そのわしの好意を無にする気か?」
 「なにが、『おまえのためを思って』よ! 私がそのようなことを一度でも頼みましたか?」
 「娘よ、勘違いするでない。なにもわしはおまえの頼みごとを聞くと言っているのではない。おまえにしあわせになってもらいたいと言っているのじゃ」
 「それは、『おとうさまの考える娘のしあわせ』でしょ? 肝心の私の考えなど無視して」
 「そのとおりじゃ。それのどこが悪い。わしはわしの考えで、みんなをしあわせにするんじゃ。それが、神々の父の役目じゃ」
 「それが横暴と言うのよ」
 「今更なにを言う? わしは、わしの産みの親である、巨人族の神を滅ぼして、この世界を統べる神になったのじゃぞ」
 「そんな『神話』を信じているのですか、おめでたい」
 「父に向かって、なんということ! ゆ、ゆるさん!」
 雷はいっそう激しく鳴り響き、そこかしこに火を落とした。

 パチンと指を鳴らすように、墨の一筆で、変えてしまえる、世界を___。行幸の行事は続く。土御門殿の池に船を浮かべて、楽士らが音楽を奏でている。船は築山を巡る遣り水の水路を巡って行く。さまざまな舞も披露される。笛の音、鼓の音が、木立を吹く風の音に混じって、趣き深い。池の面はさざ波が立って、いかにも気持ちよさそうであるが、肌寒い。
 「天皇さまも、あんなに薄着ではお寒くはないかしら?」自身が寒く体を丸めながら、帝に感情移入する左京の命婦、内裏女房で、わが従兄のオクサンの様子を、みんなおかしがって、忍び笑いを洩らしている。まあ、式部ったら、見たことをなんでも書いてしまうのね。
 音楽が終わると、天皇は、中宮さまのお部屋に入られて、いっしょに時をお過ごしなる。夜がだいぶ更けた頃、供人の促しによって、院へお帰りになられる。
 この日、宮中の職員の異動が発表される。若宮の担当者を選び、その際、昇進する人々がある。同じ藤原でも、わが一族は、その栄光に授からず、その儀式にさえ、出席しない。これはまことに口惜しい。
 朝になれば、霧が晴れ渡らないうちに、天皇からの使者が、中宮への「後朝(きぬぎぬ)の」文を届けて来る。つまり、あのとき、天皇は、出産後の中宮と「やった」のかしら? それとも、それは、ただの「形」だけかしら? などという、不届きなことも考えてしまう。寝床のなかで。それにしても、出世した人はいいわよね。女のあたしなんか、出世には関係ないけれど、わが一門の凋落を見ているのは、辛いわ。なんで、こうなるのかしら? すべては、時の天皇の子を産む娘を持っているかどうか。今をときめく道長さまは、お姉さまの詮子(せんし)さまも天皇に嫁いでらして、その方のお子さまが、今の天皇であらせられる。つまり、若宮の父、一条帝は、道長さまの甥ごさまでもある。ということは、中宮さまとは、いとこ同士ということになる。ほんとに、こんなこと、「あり」なのかしら?
 中宮さまのお部屋は、行幸のために、調度を取り払って、殺風景だったのが、また普段どおりの、女性の部屋のようになって、よろしいこと。お母さまの源倫子(みなもとのりんし)(45歳)さまも、自分の娘が天皇の子を産んだということで、とても気をお使いになって、娘にかしづいていらっしゃる。それは、中宮さまが入内してから、実に十年ぶりのことですものね。でも、入内は、十一歳だったのだから、しかたのないことではないかしら? うーん……それにしても、簡単に「入内」とは言うけれど、年端もいかないうちに、「結婚」させられるのって、どんな気持ちかしら? これなら、異族の侵入に遭い、奴隷にされる方がまだましかしら? 奴隷は、主人の子を産んでも、奴隷のままなんだけど……。それによって、出世していく、欺瞞よりましか……?
 夜になり、月がとても美しく輝いている。若宮の誕生で、昇進した男子二名が、中宮にお礼を伝えてもらうためか、われわれ女房の居室にやってきた。ずいぶんルンルンな感じである。二人は、従二位から正二位となった才人、藤原斉信(ただのぶ)(42歳)、正四位下から従三位となった藤原実成(さねなり)(34歳)である。とくに、実成なんか、「ちょっとー? いるのー?」とか言っちゃって、知らん顔していたら、「なんだよ、位の上のやつにはサービスするくせにさ」なんて、笑いながら言ったので、冗談とは思えど、じらして気を引いてると思われてもなんなので、軽く、「いますよ」と返事をした。
 「(桟の上に座ってお話したいから)ねえ、ねえ、この格子、外しなさいよ」などとバカは調子にのって言う。若い者ならともかく、いいオジサン、オバサンがやってられんワと、格子は外さない。

 一方、トロイアでは、アガメムノンが、みんなの前で、黒い泉のような涙を流していた。というのも、トロイア相手のこの戦局で、ゼウスが一向味方をしてくれず、このままではギリシア軍が壊滅に向かうしかないからだ。それにしても、ギリシアの英雄はよく泣く。人前で平気で涙を流す。しかし、考えてみればその方が自然で、いったい、いつから、男は人前で涙を見せない、などということになったのだろう?
 アガメムノンは、同じギリシア軍であった、アキレウスと対立していた。そもそも、この対立ゆえ、ゼウスは、アガメムノンを劣勢に立たせているのだ。詳しい経緯は、『イリアス』を読んでくれればわかるけど、アキレウスは、ゼウスのお気に入りなのだ。
 「それもそのはず、ホメロスのテキストの第9歌307から429までの、アキレウスのセリフを読むとよくわかるわ。そもそも、アガメムノンとの対立は、アガメムノンが、アポロンに仕える祭司の娘を自分の妾にしようとして連れていった。娘を取り返しに来た父親が、代わりに貢ぎ物を差し出すという申し出をも拒絶したばかりか、かえって、彼を群集の面前で辱める始末。それを、アキレウスがとりなした。しかし、アガメムノンは、祭司の娘は返そう、しかし、その代わり、おまえの愛妾を差し出せと、彼の女を無理矢理連れていってしまった。その愛妾、ブリセイスは、もともとアキレウスがどこかの町を攻め落とした時、『戦利品』として奪ったものだけれど、彼はその女をどんなに愛していたか、だからどんな宝を積まれても、絶対に許せんと、その悔しさを滔々と述べるの」
 「それにしても、あのときオレは、バカみたいだったな。アイアスと二人、アガメムノンの使者として、アカイア軍の戦局を救うため、ぜひ機嫌を直して戦いに参加してはくれないかと頼みに、アキレウスの陣屋を訪れたのだけど、なんの役にもたてなかった」
 「アキレウスのこの箇所を読むと、近代的倫理観に一番近い倫理観を持っているのは彼よ。でも、それにしても、『古代』って、大変。あなた方のやってることってなに? あなたたちの仕事って、主に戦争で、しかも、略奪じゃないの。金銀財宝も女も、どこかの町を攻めて手に入れるのね。それがあたりまえと思ってる。それに、正妻のほかに、必ず、『添い寝する』女がいる。まるでペットみたいに。戦場にまでね」
 「いやー……あの頃の戦争は呑気だったな。近くの島から、ワインだのパンだの運ばせて、明日をも知れない命なのに、夜はたっぷり時間をかけて焼肉なんか食べちゃうんだから」
 「ご馳走は焼肉しかないみたいじゃない」
 「羊、牛、豚……もも、背、脚、内臓、それぞれ違った味わいだ」
 「私たちは、主に、海草を食べていたのよ」
 「どうりで、体も小さいし、動けないわけだ」
 「平和な国民なのよ」
 「400年の閉塞状況……。息が詰まるね」
 「強奪され、クズのように死んで行く人生よりましよ。少なくとも私は、過去の人々が残した本を読んで、人生とはなにかを考えた」
 「われわれも考えたさ」
 「マッチョなアガメムノンはもってのほかだし、あなたもあんまり魅力的とは言えない。まあ、しいていえば、やっぱりアキレウスかしらね」
 「彼は、戦場で成長していったんだ。なにせ、われわれは十年もあそこで戦っていたんだからね。国を出る時、アキレウスはまだほんの少年だった」
 「それにしても、ゼウスは、そういうアキレウスに肩入れするのだから、意外とわかってるお人なのかも。つまり、戦争で損をするのは人民であると主張するアキレウスのね」
 「なんかきみって、意外とつまんない女だな」
 「女はみんなつまんないものよ」

 「機略縦横」「堅忍不抜」と形容されるオデュッセウスよ、私が見たいのは、じゅうじゅうと焼ける羊の脂身、強奪される女の腕に嵌まった黄金の腕輪、あなたを翻弄する真っ黒な海、空を飛ぶゼウス、アテネの視線……。すなわち、「古代」の時間、テキストの闇____。




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