青い花

第1部 「紫式部の穴」(3)



 彼は、入り組んだ路地の中にある、とあるレストランへ入っていく。奥のテーブルに、数人の男たちがついて、食事している。その男たちの前へ彼は立つ。あごの下にナプキンを挟み、ステーキ用のナイフとフォークを手にした老人が、彼を見て言った。
 「すいぶんとひさしぶりだな、オデュッセウス」
 「息子はどこにいる? 息子に会わせてくれ」
 「星の研究をさせときゃよかったものを」
 「まず、テレマコスが無事であることを確認させてくれ」
 「いいだろう」
 老人は背広の内ポケットからセルラーフォンを出して番号を押し、どこかにつないだ。しばらく誰かと会話し、「代わってくれ」と言ってから、それを彼に渡した。
 「とうさん、ごめんよ。こいつらの罠に嵌まってしまって。でも、おれは大丈夫だからね」
 息子の力強い声が聞こえてきた。
 「待ってろ、きっととうさんが……」
 言う間に、電話器を取られた。
 「汚い手はあいかわらずだな、神々の王。で、なにが望みだ?」
 「わが娘のことだ」
 「アテネがどうか……?」
 「あいつはおまえに惚れておる。結婚してやってくれ」

 神々の思惑乱れ三千年アテネは知らず父神の意図



 1008年9月11日、中宮さまは、一条天皇の皇子、敦成(あつひら)親王をお産みになった。天皇の子を産むという、行為がいかなる「大行事」か、私は記す。出産にまつわる「汚れ」への意識、若宮にまつわる、産湯そのほかの数々の行事。その際、「魔物」をよける、ということが、周到に配慮される。この頃は、「のろい」も流行り、藤原道長さまの栄華を妬んでか、さまざまな「呪詛」の札がいろいろなところで発見された。私の生きるこの時代は、「のろい」の時代なのか?




 「おとうさま、どうでしょう? 帝の子をなした貴族の一家の大騒ぎは。難産で泣いていた女官たちは、皇子が無事生まれたとなると、さあ、お祝のパーティーのための衣装揃えに余念がない。式部が描写するのは、古びた衣装の刺繍や織り。裾には、なんと、海の景色が描かれていたりする」

 皇子に産湯をつかわす、その湯の表面に、魔物をよけるために、剥製の虎の頭部の影が映される。また、その際、博士たちが、漢籍のめでたい文章を読み上げる。その儀式は、生まれてから、七日間にわたって、朝夕二回行われる。

 当の中宮はどうしているのか? それはいっさい記されていない。それにしても、紫式部という女は、自意識というものがまだ発明されていない時代に、自意識を持ってしまった女のようだ。

 人間はいつかは死ぬ。しかし、われわれ神は生き長らえる。オデュッセウスのような神話の英雄もまた、神と同じ運命を辿る。そして、不死の神から見ると、あのオデュッセウスの神話の時代から2000年も経った時代であるとはいえ、いかにも黴臭く、死臭さえする。死臭、これこそが、人間の臭いかもしれない。虫に食われぼろぼろになった着物、ミミズが棲みついている髑髏、かつては輝いていた器、剣など、儀式に使われた品々。大騒ぎ、難産のすえに生まれたぴかぴかの肌をした赤子でさえ、骨になって冷たい土に埋もれている……そして、墨で書かれ、書き写された文字だけが残り、その「記号」が、さらに1000年後の人々に「読まれて」いる。それらの人々は、そこになにを読むのか? 「式部よ」と、アテネは呼びかけた。すると、黒い髪の女が、すでに社員が帰ってしまったオフィスの椅子の上に現れた。
 「えっ? ここはどこ? 私を呼んだのは誰? なぜ、こんな格好をしているの、私」
 アテネは、その会社の男子社員に変身して、式部の前に現れた。
 「やあ、きみかい? 今度新しく入った書類整理係って?」
 式部は、ダナ・キャランのスーツを着ている自分にとまどった。アテネの社員は言った。
 「ぼくはホメロス。よろしく」アテネは式部に手を差し出した。式部は、勘を働かせて、その手を握った。
 「お近づきのしるしに、ちょっと、近くのバーで一杯やらない? おごるから」
 式部は、いずれ事情がわかるだろうと、黙って「彼」についていった。
 バーとやらは、薄暗く、人が溢れていた。しかし式部は意外にも、すでに「慣れつつ」あった。つまり、自分は、「21世紀近く、大都会で働く30代の女性」であることに。
 「西暦2000年かあ……」式部はひとりごちた。
 「さあ、飲み物はなにがいい?」「彼」が言った。
 式部は自分でも驚いたのだが、「テキーラ」などと答えていた。
 「きみの話を聞かせてくれよ。きみってどんな女なのか」
 「私? 私って、けっこう暗い女よ。ダンナが死んでから、書くことにのめり込んじゃって……」
 「どんなこと書いてたの?」
 「フィクションよ。一人の男の物語」
 「絶世の美男子にしてプレイボーイ」
 「あら、どうしてわかるの?」
 「男日照りの女は往々にして、そんな作り話を延々と書いて飽きないものさ」
 そう言われても、式部は不思議に腹が立たなかった。式部は再びひとりごちた。
 「どうしてかしら?」
 アテネは答えた。
 「きみに会わせたいやつがいる」

 たそがれて21世紀の大都会われはギリシアの英雄に会う

 若宮の「産養(うぶやしない)」の儀式が続く。「産養」とは、赤ん坊が生まれて、3日、5日、7日、9日に行われる祝いで、親戚縁者が贈り物を持って訪れる。下郎の者にも、「屯食(とんじき)」といって、おにぎりのようなものが、庭の台に並べられ、ふるまわれる。それら「屯食」を目当てに集まった身分の低い者や、下働きの下女たちも、お祭り気分で、粗末ながらも着飾り晴れやかな様子をしているのを、「いとやんごとなき際にはあらぬが」、貴族の女、式部は描写する。その視線は冷ややかで落ち着いている。貴族の女にとって、下女や庶民は、わけのわからぬ言葉をしゃべり、卑しい衣服を着ているように見える。しかし、どのように感じるにしろ、とにかく、式部は、「見ている」。決して見逃さない。それが「存在しない」かのようにはふるまわない。

 ……まあ、あの女ときたら、いばらのかんざしなんかつけちゃって……門の鍵係の女かしら? 遣り水近くの茂みでかっこつけて佇んでる。

 「いばらの髪飾り? それは、白氏文集の詩句からの連想ですかな? なにかにつけ教養が滲み出てしまいますね。われわれも、植物の髪飾りは使います。ただし、その植物は、オリーブの枝です。それに、それをするのは、身分の低い者とはかぎりません。あなたは、帝の子供が誕生した祝いに集まった、高級な女官たちの衣装を細かく記述し、そのセンスを評していますが、われわれギリシア人は、あまり衣装には凝らないのです。第一、身分の高い者も低い者も、それほど異なった衣類を身につけているわけではないのです」
 「でもそれは、われわれの時代から、1000年も前のことですわね」
 「確かに、のちにできた『西暦』では、そのようになっております。しかし、昔は、かなりの『時差』がありましたからね。私には、1000年後のあなたの時代の方が、ひどく古い時代のように思えます。それにしてもあなたは、『品評』がおすきのようですね。あの時代に、教養を身につけた、身分の高い女性は多かった。しかしなかでも、あなたの知性は抜きん出ていた。あなたがお書きになった小説の冒頭、『いとやんごとなき際にはあらぬが』というのは、あなた自身のことではないですか? ほんとうは、あなた自身の物語を書こうとしたのではないですか?」

 「産養の祝い」に、帝づきの女房たちも参賀にやってくる。それぞれに着飾って、かっこうつけている。見知った顔もあれば、よく知らない顔も混じっている。中宮さまは、御殿に臥せって、お祝をお受けなさる。「国の母」などともてはやされているが、浮かれた様子はまったくなく、むしろもの思いに沈んで、お痩せになったように感じられる。髪が乱れぬように、豊かな髪を肩のあたりで結われたそのお姿は、中宮さまの若々しい美しさをいっそう引き立てている。

 「平安時代」と呼ばれた時代は、すでに200年を経過している。この時代は、あと200年続く。

 きみ書くや平安時代のただ中で1000年続く冷めた自意識

 「でも、彼女は貴族の女よ。庶民の女は救われないわ」
 「アテネよ、きみは……」
 「いいこと? 神は庶民に属するのよ」

 「その重苦しい衣装なんかお脱ぎなさいよ」
 「な、なんていうことを……」
 「それじゃろくに動けやしないじゃないの」
 「あなたは、なんて背が高いの」
 「そうね、私は、人間たちより多少は高いかしら。なんせ女神だからね」
 「女神はみんなそんなふうに長身なの?」
 「ふふふ……なかでも、私がいちばんかしら。……あなたは、なんてちっこいの」
 「この国では、小さい方が上品なのよ」
 「戦いのとき不利だわ」
 「戦いなんかしないわ」
 「戦わなければ、世界はひらけないわ」

 この国は、小さい者が支配している。なぜだ? ひょっとして、律令制とやらは、小さい者に有利なように定まった制度なのかもしれない。長い間、とても長い間、なにも動かない時代が続く。

 そう、わたくしは、「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひ給ひける中に、いとやんごとなき際にはあらぬがすぐれてときめき給ふ有りけり」と書き始めた時、まだ男を主人公にするとは考えていなかった。漠然と、『枕草子』のような「随筆めいた」もを考えていた。それがなぜ、男を主人公とする一大ロマンになっていってしまったのか? マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』にも匹敵する力技。式部は、「戦った」のだ。

 土御門殿は、若宮誕生でにぎわっている。われわれ、女房たちの間でも、道長さまに「盃を受けよ」と言われた時、どんな歌を返すべきか、みんな口々に呟いている。わたくしは、こんな歌___。

 満月の光に浮かぶ盃は月さながらに千代に欠けない

 若宮がお生まれになって、9日めのお祝には、中宮さまとご両親を同じくする弟ぎみの、頼通さまがおいでになった。この祝いは、白い装束、白い簾、白い敷物と、すべて白で整えるのだが、頼通さまがお持ちになった厨子も真っ白で、白銀の衣装箱は、海の生き物や霊験あらたかな山が打ち出されていた。……こんなふうに、私の視線が細部に向かうのは、私たちの行動が、簾のうちに限られ、ほとんど動かないせいかしら? これがギリシアのアテネなら、あっちこっちと活発に動き回っていたかしら? だからアテネの見るものは、大海原、オリーブの林、広場での合戦、岩でできた島々、嵐……などなど。
 さてさて今宵は、ようやく白一色から解放され、色を着てよい日。人々は真っ赤な打衣の上に、シースルーの唐衣を着て、下から紅が透けて見える装いをしている。
 主である道長さまは、孫かわいさに、たびたび乳母の部屋を訪れては、まだ首もすわっていない若宮を抱き上げて高く掲げなさる。時に若宮からおしっこをかけられても、幸せそうに笑っていらっしゃる。赤子のお父上でいらっしゃる帝、一条天皇が、道長邸にお見えになられる日も近く、邸は、大掃除や珍しい菊を探し求めて植えたり、お迎えの準備に活気づいている。朝霧の中で、そんな菊の花が、赤紫色に変化しているのを見ても、なるほど中国の古い伝説にあるとおり、老いを追い払ってくれそうだ、などと思ってはみても、わたくしの心は重く沈んでいく……。池の水鳥はかろやかに泳いでいる。しかし、あの水鳥さえ、かろやかそうなのは水の上でのことであり、ほんとうは、もがき苦しんでいるのかもしれない。

 わたくしの願いは実現する可能性はない。にもかかわらず、願わずにはいられない。後世の人も読むかもしれないこの「日記」に、それを記すわけにはいかない。

 水鳥よ水の上にて戯れるいい気なものとわれは言えない



 親友の小少将の君が
里帰りしていて、里から手紙をよこしたので、その返事を書こうとしたら、空が真っ暗になり、雨が降ってきた。時雨だ。使いのものは、雨になりましたので、早くしてくださいと言う。私は、小少将の君のために紙を選ぶ。まるで恋文みたいに。濃染紙(こぜんし)という、濃い紫色の染め紙。その染料が、ちょうど、流れる雲のように、濃淡を作って、たっぷりとぼかされている。そうだ、この紙に、書いて差し上げよう。彼女が書いてきた歌はこんなものだった。

 真っ暗な空を眺めてくらしてる恋しさゆえにわれも時雨れる

 わたくしの返歌。

 時雨れならいつかは晴れるこのわれの涙はギリシアの真っ暗な海

 あるとき、小少将のきみは言った。
 「ギリシアって、なんのことですの?」

 小少将の君は若く美しく、わたくしと同じ女房職なれど、召人(めしうど)と言って、その邸の主の愛人も兼ねている。つまり、道長さまの。

 「つまり、『愛人』も公職の一種というわけね。なんて陰微な国」
 「なかなかよい国ではないか」
 「おとうさまったら! それに式部は、帝が、生まれた世継ぎを見に、道長邸に来た時も、儀式のために並んだ女房たちの、衣装や姿形の品定めばかりしてるのよ」
 「それが『作家』というものではないか」
 「おとうさまはひょっとして、しけた『神商売』なんか張ってるよりも、この国の帝になりたいなんて不遜なことを思ってるんじゃなくって?」
 「う……、そ、それは……」
 「夢を壊すようで悪いけど、帝は帝で大変なのよ。なんせ、ハーレムは、彼の意志によるものじゃないんだから。帝もまた、この不可思議な政治システムの中で、一つの役割を演じさせられているにすぎないのよ」
 「なんとまあ……」




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