第1部「紫式部の穴」(5)
アガメムノンは間諜を募る。名乗りをあげたのは、乱暴者のディオメデス。彼は相棒として、オデュッセウスを指名する。なぜならオデュッセウスは、パラス・アテネのお気に入り。一方、トロイア方でも、同じことを考える。すばらしい馬と戦車の報賞に釣られて、名乗りをあげるのは、ドロンなる男。このとき、勝負は見えている。死屍横たわる真夜中の戦場で、双方のスパイたちが出会う……。
「つまり、あなたって策士ってわけね」
暗闇の中でそう囁く女が誰か、オデュッセウスはわからない。式部という名の、東洋の女流作家なのか、彼を導くゼウスの姫神アテネか、それとも、いつか島で出会った魔女キルケーかカリプソか。たくさんの女たちが通り過ぎていった。
「ばかね私を忘れるなんて。まっ先に思い出さなければならない女を思い出せないでいるなんて」
その名は、ペネロペイア。彼が故郷に残した妻。ペネロペイアは語りかける。
「結局、あなたは、その男、相手方のスパイのドロンを殺してしまった。聞きだせるだけの情報を聞き出して」
「ちがう!」やっと理解したオデュッセウスは、その声の方に向かって叫んだ。「あいつを殺したのは、相棒のディオメデスだ。やつが、ばっさりと……」
オデュッセウスは、そう言うなり口を噤んだ。
「ばっさりと、どうしたの?」
オデュッセウスは答えなかった。
代わりに声は続けた。
「胴体から、頭を斬り離したんでしょう? 筋が二つに切断されて真っ黒な血が吹き出した。それから、その頭にのっかった貂(てん)皮の兜と、体が身につけていた狼の皮を剥ぎ取った。弓と槍もいただいた。……戦場では、そうやって殺した相手の身につけているものから、持ち物まですべて奪うのが習いなのね。つまりその夜、あなたは大した活躍をしたわけね。トロイア側に加勢に来たトレケス人の寝込みを襲い、十数人を殺したほか、王も殺してしまった」
「それも、ディオメデスが……」
「あなたはそうやって、なんでも人のせいにする。それらはすべて、あなたの意志でもあったのでしょう?」
その女はすでに死んでいる。何千年も前に。声だけが残り、こうして今も、オデュッセウスに語りかける。目を凝らすと、闇の中に、苦い顔したアテネが立っている。
「やわなやつ。今更、そんな女の声を聴いてどうするの? あの夜、私は青い鷺を飛ばし、私の存在を知らせてあげた。死屍累々の戦場で、なによりも心強く思ったはずよ」
古代の空気は、様々な動物の匂いに満ちている。獅子、豹、貂、狼……、大将たちは、動物の皮の兜や、マントを身につける。血のりのついたドロンの武具は、供儀の家畜とともに、アテネに捧げられる。
青鷺の啼く声聞けば女神さまわれを守って戦場に立つ
若宮がお生まれになって五十日のお祝。上流貴族が集まり、宴会が催される。邸内の東側の屋敷に、ぎっしりとお膳が並べられる。若宮用の小さい食器を載せた小さいお膳も並べられる。上位の女房たちも、禁じられていた色の衣装を許されて、華やかな装束を重ね、宴席に連なる。少輔(せう)の乳母(めのと)は若宮を抱き上げ、お祖父様であらせられる道長さまに移される。道長さまは、孫がかわいくてしかたのないご様子。また、中宮さまのお母さまでいらっしゃる倫子さまは、天皇の子どもを産んだわが娘に敬意を表して、赤の唐衣をつけた正装をなさっていらっしゃる姿は、なんともしみじみとしたものがある。中宮さまは、葡萄染(えびぞめ)の五重の重ね袿、蘇芳(すおう)の小袿をお召しになっていらっしゃる。すなわち、山葡萄のような深い紫と、赤みがかった紫。外祖父である道長さまが、若宮に餅を含ませる儀式が行われる。
ここでは、時間が永遠に止まったかのように流れている。永遠に止まったかのように見えても、流れていることに変わりはないのだけれど。後の世のテキストでは、ただ単に、***年〜***年と、その生きた時間が確実に閉じられている死者たちが、ここでは、まるで永遠に生き長らえるかのように、「目下の心配事」に心をとらわれている。
貴族たちは酒に酔って、透渡殿の橋の上で大声で騒いでいる。檜の薄板で作られた箱に詰められた豪華な料理は、上流貴族たちに披露された後、宮中に献上される。日も暮れ、松明の明かりだけでは足りぬと、蝋燭を用意させる。
藤原顕光(ふじわらのあきみつ)65歳、右大臣、正二位、道長の従兄、酒に酔って、女房たちのところに乱入、几帳を引きちぎり、女房の扇を取り上げ、卑猥な冗談を言う。「いい年して……」と、女房たちが陰で嗤っているのも気づかず。
藤原実資(さねすけ)52歳、権大納言、正二位、右大将、じっと、几帳の外にはみ出した女房たちの衣装を観察。すなわち、褄や袖口の重ねの数や色。歌の順番がまわって来るのを恐れていたが、いざまわって来ると、無難な歌を卒なくこなす。
藤原公任(きんとう)43歳、中納言、従二位、文壇の大御所、わたくしに向かって、「ちょっと失礼しますが、このあたりに、若紫はいらっしゃいませんか?」などと、わたくしが現在執筆中の人物をわざとわたくしに擬してふざけてみせる。「『源氏』みたいないい男が見当たらないのに、『若紫』などいるわけないでしょ」といなす。
藤原実成(さねなり)34歳、ついこのあいだ、若宮誕生を記念しての異動で、従三位に昇進したばかり。道長さまに、「盃を取れ」と言われて、進み出る。しかし、父公季(きんすえ)に配慮し、階下より進みでる。その父藤原公季、52歳、右大臣、正二位、左大将は、息子のりっぱなふるまいに涙する。
藤原隆家(たかいえ)30歳、中関白道隆の四男、権中納言、従二位、兵部のおもとと呼ばれる女房の袖を無理矢理引っ張ろうとしてセクハラ。道長さまは、それをごらんになっていらっしゃたけれど、何もおっしゃらない。
まこと、この日は、女房たちにとっては災難の日である。酔った貴族の男どもが勝手し放題のふるまいに及ぶからである。わたくしは、同僚女房と、几帳の陰に隠れた。それを道長さまが取り払われて、
「どうじゃ、若宮のために、和歌を一つ詠めや」と、言われた。しかたがないので、硯と筆を取り寄せ、お詠み申し上げる。
いかにして数えることができるでしょう幾千年も続く御代を
「いやー、式部は実に見事に詠んだな、五十日(いか)の祝いと、『いかに』にかけてある。どれ、わしも返そう」
もしわしに鶴の寿命があったなら宮のお年を数えられるぞ
チョーつまらん、御祝儀の歌である。道長さまはご満悦で、
「宮(中宮さまのこと)はよいパパを持って幸せものよ、若宮はよいグランパを持ってな」などとおっしゃり、奥さまの倫子さまに向かっても、「おまえもよい男を持ったものよのお」などとのたまう。やれやれ。実のところ、このお屋敷は、倫子さまのお屋敷である。道長さまは、倫子さまの父上である、源雅信さまに、軽蔑されている。しかし、時代は、道長さまの世になっていく。陰謀とか根回しとか腹芸とかいうものが、この国の政治の基礎を形作っていく。憮然とした顔の倫子さまは、
「あたくしはそろそろ休みますわ。宮、母を不作法と思わないでくださいね、親あっての子なんですから」
などとおしゃって、普段は中宮の御座所になっている場所を通り抜けていかれた。まわりの人々は忍び笑いを洩らす。
どの人もこの人も、みんな、***年〜***年と数字で閉じられ、かつて存在した人として、テキストの上にある。もしも、その名が、レキシに残ったとして。しかし誰も、後の世に、その文字を読む者は、そうした文字を読みこそすれ、彼らがほんとうに、「かつて存在した」などとは、一瞬たりとも、本気で思ったりはしない。