第2部 1「トロイア戦争は起こらないだろう」(1)
トロイア戦争は三日目に入った。だがもう三十年も闘っているような気が、戦士たちにはした。戦士たち……そう、アガメムノンやオデュッセウスといった名だたる武将たち以外の、そしてたとえ討ち取られるだけのために登場するのであれ、ホメロスにその名を挙げられる者たち以外の、無名の戦士たち。彼らはこの戦争が、「トロイア戦争」と名づけられていることだって知らない。ただ彼らは武将たちを補佐しているのにすぎない。その武将たちの闘いも、実際、悠長なものだった。なんせ、女は連れ込むは、葡萄酒やパンは運び込むは、夜はぐっすり眠るは……。それでもそれが、「ピクニック」でないのは、人が確実に死んでいく。死んだ人間は、身ぐるみ剥がれる。それが戦争の目的でもあった。つまり、物資の調達である。ゼウスはトロイアのヘクトルの味方をし、アガメムノンもオデュッセウスも傷を負い、ギリシア軍は劣勢であった___。
「おとうさま、あたくし、完全に頭に来ましたわ!」
「おお、アテネか、なにをそう苛立っておる? M.ナイト・シャマランの『アンブレイカブル』が期待外れであったか?」
「なにをおっしゃってるの? おとうさま」
「いや、『トロイア戦争』だがの」
「もう、おとうさまったら、なによ、急に昔を懐かしんじゃって」
「懐かしんじゃってって、おまえ……」
あたくしが頭に来たのは、ほかならぬ、紫式部の「上司」、藤原道長のことよ! なによ、あの男、式部の部屋を勝手に荒して、『源氏物語』の原稿を持ち出して、自分の娘に渡しちゃったのよ。つまり、あの時代、個人のプライバシーなんてなかったの! あたしは言ってやったわ、「式部、あんた平気なの?」って。
ああ、頭が割れそう! 確かに、わたくしの部屋を道長さまは引っ掻き回された。わたくしが実家から持ち帰り、隠しておいた『源氏』の原稿を求めて。そしてついに見つけられ、持ち出されてしまった……。わたくしの後悔と言えば、あれは、まだ十分に推敲してなかった。あれは、まずい方の原稿なのだ。よい方の原稿は、ここ、頭の中に入っている。アテネよ、西洋の大柄な女神よ、慌てるでない、わたくしはそれほど、甘い女ではなくってよ。
ギリシア側が、船陣を守るために、トロイアの地に築いた濠と防壁。その防壁をめぐるトロイア側との攻防。それらは気紛れな神々のために、跡形もなく崩された。ポセイドンとアポロンが、あらゆる川の水を注ぎ込んで、防壁はもとより、英雄たちの屍も泥水に流した。よく見れば、英雄たちに顔はなく、錆かけた金属や腐りかけた獣の皮を襤褸のように体にまといつかせていた。現トルコは西北部のヒッサルリクの丘の、埋没している都市9層のうちの、下から7番目の前期、? A市が、その「トロイア」なのか? その都市は前1250年前後に、戦火に滅びたことが確認された、と、岩波文庫版『イリアス』、訳者松平千秋の解説にある。「トロイア戦争」は、ほんとうにあったのか?
そんなことは、どうでもいい。しかし、時代が滅びていくのを見るのは、私の心をわくわくさせる(私、この私とは誰なのか? たとえば、『イリアス』では、第12歌、175あたりに、「わたし」が登場する。この「わたし」はホメロスその人か? どうも「わたし」とは、姿を見せずにはいられないものらしい)。いずれにしろ、「英雄の時代」と言われたミュケナイ時代は滅び、ローマ帝国も滅びた、「中世」にもまた「秋」が来た。私はそれら滅び去ったものの上に立って、ただの土くれを見ているのがすきだ。
つまり、「神話」とは、ただの土くれだった。
道長邸の池の水鳥が日々増えていく……。お里で出産された中宮さまもそろそろ宮中へご帰還される。その前に、雪が降ったら、この庭も、さぞかし趣き深いものになるでしょうにね、などと、同僚の女房たちと語り合っていた。そんなおり、わたくしは里帰りすることになった。わたくしが退出して二日もたたないうちに雪が降った。……ふるさとは見るところもない。味気ない木立が続いているのみ。わたくしが女房職をたまわって宮中にあがってしまったので、昔つきあっていた人とは、疎遠になってしまった。いえ、わたくしの方からも、あれこれ思うこともあり、結局、こんなありさまになってしまった。わたくしの帰るところは、もうあそこしかあり得ないのか? 中宮さまのお部屋の前でいっしょに仮寝した大納言のきみが恋しくなって、手紙を書いた。
御一緒に仮寝した夜恋しいわここの冷たさ鴨の上毛よ
返事が届いた。
友なくて私もひとり凍えてる夜半に見る夢鴛鴦の夢
「ほんと、この雪をあなたに見せたかったわ、あんなに『雪が降ったら……』などと、おっしゃっていたあなたですものね」などという他の女房からの手紙も届いた。道長邸の真の主である奥さまの倫子さまからのお手紙も受け取った。「行くなって止めたら、『すぐ帰りますから』などと式部は言って、なかなか帰って来ない。うそつき!」などと書かれていた。たとえご冗談でも、もったいなく思う。わたくしのようなものを……。
でもほんとうのところ、式部はどうしたらいいかわからない。いったい何をどうするというのか? 漠然たる不安。作家の悩み。
父ゼウスと叔父ポセイドンが、それぞれ、トロイア側とギリシア側に加勢して、古臭い武具、武器、戦法で戦わせている間、わたくしアテネは、ヴィルパリジ夫人のサロンにいた。ヴィルパリジ夫人というのは、マルセル・プルースト描くところの老公爵夫人で、『回想録』の著者、昔は「いとやんごとなき」家柄の娘で、「きわめてときめきたもう」女であった。しかし、彼女は、その才気ゆえに、辛辣な嫌みが災いしてか、社交界での「地位」を失い、しけたゲストしか集まらない二流サロンの主催者と成り下がっていた。
それもこれも、時間の仕業、まったく時間というのは曲者である。かつての美貌で才気煥発、奔放な女が、ただ上品を装おうだけの老婆に成り果てている___。彼女の体を楽しんだ男たちは墓の下……と、プルーストは皮肉たっぷりに書いている。おそらく「今」は、1800年代の終わり頃、わたくしは不死の女神であるので、どんな時間に行くこともできる。そう……、「彼女の体を楽しんだ男たちは墓の下……」と、皮肉たっぷりに書いたプルーストも墓の下、であることを知っている。おっと……シャンパンで喉を潤していたら、向うから、白い鬘のヴィルパリジ夫人がやってきた。わたくしは十二単の裾を持ち上げて挨拶する。
「あなたのお作、拝読いたしましたわ」
「お目汚しでございました、マダム」
「あの、ゲンジのプリンスは、現実のモデルがいらっしゃいますの?」
「いいえ、すべてわたくしが作り上げました人物です」
「そう___。楽しんでちょうだい」
「ありがとうございます」
マダム・ヴィルパリジは、むかしそんな男に情熱的に愛されたと、口にすることもできた、しかし、彼女はしなかった……。
才能は分解しない墓の下ゆえに女は午後も悶える
「いったい、私をどこへ連れていくの?!」
「ふふふ、知っておいて損はないんじゃないの? あなたが死んで、800年も経過した世界よ。『作者』はあなたのライバルだし」
「私は死ぬの?」
「もちろんよ」
「あなたは?」
「私は、永遠に生きるわ」
「永遠に生きるって、どんな気持ち?」
「永遠に生きてみないとわからないわ。だってまだ、永遠ではないんですもの」
永遠はどれほどの時古臭きゼウスの娘頬杖をつく
アンブレイカブル……壊すことのできないもの。実際、2001年のハリウッド映画描くところの、ブルース・ウィリス主演の『アンブレイカブル』とは、130人以上の人間が死んだひどい列車脱線事故においても、主人公の男は、ただひとり無傷であった。そういえば、彼は、過去においても、怪我や病気というものをしたことがなかった。そのオチは、なぜなら、彼は、マンガのヒーローであったから、というのであるが……。うーーーん、このオチを、2001年の社会で納得するのは難しい。まだ、「宇宙人であった」というほうがましだったか。「実は死んでいた」という、さらに信じられるオチは、すでに前作『シックス・センス』で使ってしまったし。苦しいところだな、ハリウッド期待のインド人監督、M.ナイト・シャマランも。
コホン、その点、トロイアでは、アンブレイカブルは、もっと信憑性がある。なんたって、「神が加護していた」と言えばいいのだから。事実、ギリシア側のアンティロコスには、「ポセイドンが守って」いて、トロイア側が大勢でかかってきても、アンブレイカブルなのだった。この他、アンブレイカブルの英雄は、ゼウスが加護したトロイア側のヘクトルとか、たくさんいる。
「確かに、第13歌は、一大スペクタクルですわ。でも、いったい、どっちがギリシア側で、どっちがトロイア側か、わけわかりませんわ、肝心のホメロスにとっては、わかりきったことだったかもしれませんけど。あたしたち、時を経るに従って、記憶力というものを減らしてしまったんですもの。つまり、文字を読んで、頭の中に、一大スペクタクル・アクションを描けなくなっているのよ」
「困ったことじゃの」
「つまり、このアクションの起こりは、そもそも、お父さまと、ポセイドンの叔父さまの意地の張り合いにあるのよ。お父さまは、ギリシア軍を、トロイアの地で壊滅させる気は毛頭ないにもかかわらず、トロイア軍の味方をしたのよ。だから、ポセイドンの叔父さまが怒って、ギリシア軍の肩を持った。代理戦争ね」
「うーん、わしは、アキレウスの母親、海のニンフ、テティスに頼まれたのでな」
「いったい、そのテティスとやらって、お父さまにとって、どんな女なの?」
「それは、その……」
「まあ、いいわ。深くは追求しない。お父さまの女関係をいちいちあげつらっていたら、きりがないもの。……つまり、こういうわけね、ギリシアの総大将、アガメムノンのアキレウスが対立して、アキレウスは、戦いを抜けていた。だから、アキレウスの存在の大きさをアガメムノンに知らしめるために、トロイア側の味方をしたと」
「う、うん、まあな……」
「敵味方分れてやり合うそのさまは、まるで、マフィア映画」
血と泥と、槍と弓と、砂と……青銅の兜と武具……最後に勝つのは誰だろう? 決まってる、最後に勝つのは、あの男……。ここには名前の出ていない、堅忍不抜、機略縦横のオデュッセウス。
それはともかく、ここでは、やる者もやられる者も、名前があり、出身地があり、父があり母があり、先祖のエピソードがあり、それを、ホメロスは、一々語る。
トロイアや傭兵たちの夢の跡風が消してくギリシアは春
すでに初老にさしかかったクレタ島出身のイドメネウス(もちろんギリシア側)は、古い八の字型の楯を持っている。彼は、ポセイドンの加護によって、カベソスから、戦いの噂を聞いて、トロイア軍に加わったオトリュオネウスを討ち取った。この男は、トロイアの王プリアモスの娘のうちでも、とくに美貌にすぐれたカッサンドラを妻にと、求めていた。結納の品はないが、きっとギリシア側を追い払うと約束して、王に聞き入れられていた。だが今は、イドメネウスの投げた槍が腹のまん中に刺さり、地響きを立てて倒れたところだった。
この時代、討ち取られた者は、兜も武具も武器も剥がされて、敵に取られるのが普通だった。つまり、そのようにして、武具、武器を調達したのだった。そもそも戦いというものが、その起こりがどのように伝説化されていようと、物資および奴隷の調達が目的だった。戦争とは、略奪のまたの名。戦士とは、強奪者のまたの名だった。
___「ちょっとタンマ……」アテネはアイギスを放り出して、土の上にうずくまった。ギリシア、トロイアの両軍の戦士たちは、ただの動かぬ人形になった。オリンポスの宮殿にましましているゼウスですらもが、チョコレートのバーコードを集めて送ると抽選で当たるような、「おもかわいい」が、安っぽいぬいぐるみにかわった。
「いったいどうしちゃったんだ? 姫」オデュッセウスだけが、メル・ギブソンの顔をして、ベッドの中から声をかけた。頬には口紅の跡が残っていた___それは、「セレブ」のなにがしが愛用する某メーカーの赤紫色だった。式部なら、何色とはっきり言うことができただろう___。
「月のものになちゃって」
「女神でもそんなものがあるのか?」
「そりゃ、女ですもの……」うずくまったまま、視線をぼんやり地面に落とした。土は柔らかい絨毯に変わっていた。目の前に、柔らかそうな布きれが落ちていた。アテネはするともなく手を伸ばしてそれを拾った。「なに、これ?」
「いや、それは……」オデュッセウスはアテネの人さし指に引っ掛けられた、オレンジ色のTバックの言い訳を考えようとした。
「相変わらずね、オデュッセウス。まだ下着をつけてるだけましか」
「つまり、それは、商品テスト用の……」
アテネはオデュッセウスの言うことを聞いてなかった。ぼんやりと物思いの中に沈み込んだ。アテネは、式部の生身の顔が見たいと思った。生きて動く、表情のある、そして誰かにちょっと似ているような、そんな感じの。決定的な鼻の形、決定的な口の形、決定的な額の形。思ったより小さくて、歪んでいる、意外な、華々しさのない、古臭い顔。でも、確かに、彼女には違いない。そんな顔に、手を伸ばして触れてみたい。
街はクリスマスの飾り付けで光り輝いている。明日はクリスマス。しかしいくらヨーロッパとはいえ、1008年には、まだそんな光景はなかっただろう。そのおおもとのキリスト教さえ、定かでない時代だ。しかし、イエスが誕生したことは確かなので、少なくとも、「聖書」作者たちは、それを記述し終えていただろう。アメリカ大陸はまだ、ヨーロッパ人たちに発見されていず、ネイティブたちの楽園だった。
1008年12月24日、旧暦11月×日、は、式部にとっては、実家で出産した中宮が、御所へ戻る日だ。一行は色とりどりの牛車を連ね、夜の8時頃出発する。なぜ夜なのか? 人に姿を見られないためか? 乳母の腕の中には、生まれたばかりの赤ん坊も眠っているというのに。12月24日と言えば、とても寒かろうに。たぶん、その日、その時刻が、「吉日」なのだろう。
式部の日記は、その日を境に、内省的に、バージニア・ウルフっぽくなってくる。それもそのはず、実は、「式部の穴」へ、あのウルフも入り込んだのである。
……誰も見てない、世界中の誰もが想像してもいない東洋の片隅の、こんな寒々とした時刻に、牛の引く、時代錯誤的装飾を施した車に、何十人もの人々が乗り込んで、ここからそう遠くない御殿へと向かう。馬の中将の君ったら、まったくヤなおばさんね。あたしといっしょに同乗したもんだから、露骨に嫌な顔をして。御所に到着して、先を歩く彼女の後ろ姿を見ていたら、大きなお尻をもぞもぞさせてみっともないったらありゃしない。みんなこんなふうに、あたしの後ろ姿を見て思ってるのかと思ったら、ちょっと恥ずかしいわね。
あたしは、お座敷のまわりをぐるりと囲んだ、廊下みたいな部屋、すなわち「廂(ひさし)」に寝ることになった。ううっ、さむっ! ……っく。十二単なんか脱いじゃって、綿入れを着込む。香炉のそばによって、暖を取る。それでも寒いったらありゃしない。幸いにもいっしょの部屋に、親友の小(こ)少将の君もいた。警備で非番になった男どもが、「お寒いでしょう?」などと話しに来た。明日にしてよって、思う。もう今夜はこのまま寝かせて。あたしなんか、いないことにしてほしいのよ。「はい、でも、香炉がありますから」と適当に答えて追い払う。彼らは、マイホームへ帰っていった。そこにどんな奥方が待っているというのだ? どうせ大した女じゃないだろう。「ほんとに世の中って、いやなものね」と、小少将の君が言う。お父上は出家され、性格いいのに、ほんとに不運な人だわ。「ねえ、あなた、道長さまって、どう?」「どうって?」「うまいかってことよ」「ああ……」小少将の君は恥ずかしそうな笑いを洩らした。でもそれきり答えない。「ねえってば!」「普通でしょ」「普通? 前のダンナと比べては?」「式部さまったら、いやな人」「あなた、あのオジサンを、ほんとに愛してるの?」「…………」
後背位にて交わりたる男女の、男根の、膣の中へと入りいく生々しさの図のみ、式部の脳裏にクローズアップされるのだった。
火も消えた東洋の地の片隅でフロイトに主の分析を乞う