第2部 1「トロイア戦争は起こらないだろう」(2)
「娘や、何をしておる?」
「…………」
「娘や、何を……」
「うるさいわね! 見ればわかるでしょ?」
「格闘技の稽古ではないのか?」
「これが格闘技に見えて?」
「ミシンを踏んでおる……とは、珍しいな」
「お父さま」
「な、なんじゃ?」
「ちゃんとギリシア神話を勉強なさってよ」
「そんなもんは、おまえ」
「あたくしアテネは何も血なまぐさいことばかりに関与してるわけではないんですよ。機織りの女神であるのですよ」
「でも、娘よ、それは機織りではないぞよ」
「うっせーなオヤジ、機織りだってミシンがけだって、同じようなもんだろー?!」
「ああ! 娘よ、親に向かって、なんて口を……」
イリオスはいま、ロンドンの下町の、さらに人目につかない地域のように、薄汚れ、血に塗れていた。ただ、そこと違っていたことは、イリオスの空気はかぎりなく乾いていたことだ。ゼウスの寵愛するトロイア側の武将ヘクトルのために、アカイア(ギリシア)勢は窮地に追い込まれていた。総大将アガメムノン、機略縦横のオデュッセウス、大音声の誉れも高きディオメデスの三大将も負傷した。その他、「脇役」たちは、首が胴体を離れて飛ぶわ、眼球が砂地にぽとりと落ちるわ、腰骨から腎臓を貫かれるわ、臓物をえぐり出されるわ、いやはや散々なものである。
アガメムノンは弱気を出して、夜のうちに故郷へ帰ろうと提案する。なにをおっさるウサギさん、と反対するオデュッセウス。続いて年若きディオメデスも戦闘方法を提案する。当然、大地を揺るがすポセイドンもそれを見逃すはずはなく、わしがついておるから、しっかりやるんだと激励する。
そんなおり、女神ヘレは、トロイア側に味方するゼウスの気をそらす方法を思いつく。「ほら、あたくしが色仕掛けで……」
「ついてはアフロディテや、そなたの『武器』、『愛欲』と『慕情』をあたしに貸してはくれぬか? それさえあれば、どんな堅物の男だって、モノにできるのだから」
アフロディテは、両親の神の不和をとりもちに行くためというヘレの嘘に騙され、「武器」を貸した。それは彼女の胸につり下げられた紐のようなものであった。ヘレは、体には、クリスチャン・ローダーのボディクリームを塗り、耳には桑の実型のピアス、彼女のセクシーな衣装は、いま、こうして、わたくしアテネが仕上げている次第である___。
「ほら、できあがりましたわ、お姉さま」
「まあ、すてき。あなた、相変わらず、すばらしい腕前ね、さあ、それをあたしに着せてちょだい」
「でもね、お姉さま、あたくし、なんだか、気が進みませんわ」
「なにをいってるの、アテネ。これもすべてわがギリシア軍のためじゃないの!」
「お姉さま、たかが戦争のために、再び近親相姦の罪を犯しますの?」
「いいのよ、これは、古代のオハナシなんだし、なんたって、われわれは神なんだから」
「フロイトが聞いたら、なんて言うか?」
「それは二十世紀のオハナシでしょ?」
「いかなる世紀だろうと、その世紀に、あなたは彼の妻だったんですよ」
「それを言わないで」
なに言ってんだろ、この二人? とにかく、ゼウスはヘレの「魅力」に参って「催し」、ベッドインしているうちに眠ってしまった。これには、「眠り」の神も関与していたから、彼の眠りは当分覚めることはないだろう。その間に、ポセイドンはギリシア側の先頭に立って彼らを導き、やっと戦局は、ギリシア軍が優位となった。
ほんとに、お父さまったら、スキモノ。
ゼウスはイデの山で眠りこけていたが、アテネがいたのは、オリンポスの山ではなく、大和三山の一つ、天香久山であった。そこに腰かけて、霞のように連なる桜を愛でていた。
首が飛ぶイリオスの地の戦闘を離れてわれは桜を愛でる
ふん、どうってことないただの事実そのものだわね、アテネはひとりごちた。
私はいいかげん嫌気がさしている。この、糞面白くもない時間に閉じこめれていることに。たとえ後の世に、私が「歴史に残る」大作家として認められたとしても、当の私になんの関係があろう。私は見る、五節(ごせち)の行事の一環として、貴族たちが舞姫を献上し、御殿で帝を前に舞姫たちの踊りがある。当の舞姫たちは几帳に取り囲まれて見えないけれど、舞姫たちに付き添う人々の様子は見える。彼女らには、世話係の女房を始め、童女、下仕、上雑仕、桶洗いなどが付く。桶洗いというのは、便器を洗う下女のことである。その下女たちも、人に見られるために緊張した面持ちで畏まっているのを。そしてそんな彼女たちを眺め、笑っている貴族たちを。また、誰某のグループの中に見い出された、かつての御殿に仕えていた女房を。その女はすでに婆アのくせして乙にすましている。それがなぜか尺に触って、われわれは苛めてみたくなる。その女の主人からと見せかけた手紙を書いて届けさせる____。
五節会の多くの人のその中で目立っていたわあなたの飾り
あーあ。こんなことをしても、何も面白くないわ。いずれ後世の読者は、どうせ私のことを意地悪婆アと思うに決まってる。ちゃんと日記に書いておくから、ほら読みなよ。人を呪うということが流行り、怨霊が流行り、疫病が流行る。街路には捨てられた、あるいは行き倒れの人々の死体。ほんとに息が詰まりそうだわ。摂政にでも関白にでも、なりたきゃなればいい。おっと日記にそんなことを記すわけにはいかない……。
「紫式部の穴」の前には人々の列ができていた。みんな一度、紫式部とやらになってみたいと思っていた。お代は日本円にして約二万円。それが高いか安いか、私は知らない。ここに並んでいる人は、払ってもいいと思ったから、ここに並んでいるんでしょう。「紫式部の穴」に入っていって、式部であることを堪能したのちは、どこへ「出る」のか? 実を言うと、ものすごいところに「出て」しまうのである。ええと、十五分だけ紫式部になったあとは、なんとヨーロッパ中世のある街の、異端審問の果ての処刑が行われているところへ出るのである。おりしも、ある男が豚の丸焼きよろしく、棒に四肢を縛り付けられ、薪と藁の上にかざされていたところへ、「出て」しまったある客は、「おっとー、刺激が強すぎる!」と思わず口走った。
「いいかげんにしてちょうだい、アテネ! 私には私の時代の生きる喜びというものもあるのですからね」
「あら、何かしら?」
「あなたにはわかってない。白い紙に、墨をたっぷりと含んだ筆をすべらせていく快感が。そこに映る、影、匂い、光り、温度、露、などの気配を感じる快感が」
「よくわかんないわ」
「それらは、階級も、宿命も、状況も、すべて、消していく」
「そういう叙情的な思考って……」
人はそれを叙情と言いしわが国のテキスト抜けて流れしものを
さっきの「客」は、なんと、ロラン・バルトであった。
ニューヨークの繁華街にあるレストランは一見したところ、南欧からの移民の二世、三世たちが、大きなテーブルを囲み、侃々諤々していた。実は彼らは、オリンポスの神々なのであった。頭の天辺が丸く禿げて光っている、鬚の濃いオヤジが言った。
「いったい、イリオスはどうなっておる?」
「どうなっておると言ったって……」
フォークにたっぷり巻き込んだスパゲティを口元に運んだまま止まり、さっきのオヤジとよく似たオヤジが答えた。
「どうでもいいわ、あんな旨味のないところは」
赤ワインの入ったグラスを空けた、これまたべつの、しかし前の二人にこれまたよく似たオヤジが口をはさんだ。
ミネラルウォーターのグラスに口をつけ、コホンとせき払いしてから、色白の虹のような目をした女性が言った。彼女だけは、誰の目にも明らかだろう。ゼウスの使い、虹の女神イリスだ。
「ゼウスさまの伝言をお伝えします。大地を揺るがす神ポセイドンさまにおかれましては、即刻、アカイア軍から手を引き、家へ帰られるようにとのことです。万一言うことを聞かれない場合は、面倒なことになる、ということです」
「ふん、なんじゃ? その面倒なこととは?」そう答えた禿げオヤジが、おそらくそのポセイドンであろう。
「もちろん、一騎討ちの勝負」イリスは澄んだ声で淀みなく答えた。
「あははは……」ポセイドンは高らかに笑った。「アホらしい!」
「どうせ、この戦争は、アカイアの勝ちと決まっておるんじゃ、それを今更……。なにゆえ、ゼウスはトロイア勢の味方をする?」
「決まってるじゃないの、ゲームを面白くするためよ」そう答えたのは、残酷な顔をした女だが、果たして何を司る神であったのかは、確認できない。
「とにかく、ゼウスさまは今、トロイアのヘクトルに活躍させ、彼がアカイア勢を討ち取るところを、アキレウスに見せる。それを見たアキレウスは、自らはアガメムノンへの反抗のために、戦いには参加しないが、友だちのパトロクロスを鼓舞して、ヘクトルに向かわせる。それをヘクトルが討ち取る。そして、やっと、アキレウスが友の仇を討つために立ち上がる……。ゼウスさまの脚本はこうなっております。みなさまもそれを考慮に入れ、お振る舞いくださいますようにとのことでございます」伝令のイリスは、そう神々に説明した。
「ゼウスめ、それほど、アキレウスがかわいいか」
「いや、あれは、彼の母親、女神テティスの頼みを叶えてやろとしているのだ」
「ふん、妙なところで義理堅い男よのう」
「ゼウスの命令は絶対ですわ。彼に逆らうことなどできないのですもの。だから、みなみなさま、ご辛抱あれ」高級ブランド服に身を包み、とりわけ貫禄のあるマダムが言った。おそらくゼウスの妻、ヘレであろう。マダムは向かいに座っている暗い目をして痩せた男を見て続けた。「あなたも、自分の息子を討たれてずいぶん辛い思いをしたでしょうにね」
するとその男は、自分の椅子を蹴ってすっくと立ち上がり、懐から銃を取り出して安全装置を外した。「畜生、今すぐ、仇を取ってやる!」
「バカをお言いでないよ、オリンポスのヒットマン」そう言って彼の銃を奪い取ったのは、誰あろう、わがアテネだ。「おまえ一人が私怨を晴らしたところで、この戦争はどうなるものでもない。そもそも私怨などと言うものは、卑小な人間のものだ。討たれたのは、あんたの息子だけじゃない。この戦争では、あんたの息子より遥かに強く優れた若者たちが大勢討たれておるのじゃ。この不条理に耐えられずして、なんの神ぞ!」
アテネは自室に戻り、ゼウスに電話する。
「お父さま、いいかげんになさってよ。あたくし、ほんとに、足を洗いますわよ」
「アテネ、さっきの会合ではよく言った。さすがわが娘」
「なにが、『さすがわが娘』よ。あっちにもこっちも娘をこさえて」
「う、それは……それでポセイドンはおとなしく引き下がったか?」
「ぶつぶつ文句はおっしゃってましたが、海へ戻られましたわ」
「それでよし、と」
「お父さま、神って、いったいなんですの?」
ゼウスは電話を切った。
血と砂とわれの裸体をそこに残しすべての時間(とき)は消去されていく
「お父さま、この小説には思想というものがすっぽり抜け落ちていますね」
「小説に思想なんかいらん」
「プラトンでも呼んできますか」
「待て。あやつは、詩人、作家を信用しておらんぞ」
「そのくせ神話は信じてるんですね」
「おまえが建設したとかいうあの街の話か」
「ほんとうに、いい迷惑ですわ。あたくしが従兄のヘパイストスに言い寄られ、逃げているうちにヘパイストスが『種を洩らし』ちゃって、その『種』が大地に落ちて、生まれたのが、アテナイの王だというのですものね」
「しかも下半身は蛇だぞ」
「ほんとに、何が言いたいのかしら? あの神話。あれじゃ、強姦未遂、早漏で、その洩れた精子で大地が孕んだってことでしょ? ものすごい話ですわね。古代って、なんか美しくない」
「だから言ったじゃないか、思想というものはそんなものさ。あれなら、『誰でも知りたがっているくせに、なんとなく聞きだせない、セックスのすべて』を作ったウディ・アレンの方がよほど洗練されている」