「青い花」

第2部 1「トロイア戦争は起こらないだろう」(3)


 ホメロスの作品には、「アポストロペー」といって、作者が登場人物に直接呼びかける手法がある。たとえばこんな調子__、

 アテネよ、結局のところ、これはゲームというよりも、そなたの父が仕組んだ茶番なのだ、今はゼウスの命を受けたアポロンに援護されたヘクトル率いるトロイア側が優勢でも、いずれはギリシア軍に滅ぼされる運命にある。その茶番に、そなたも一役買っているのであろう。

 ___そして、長い長い時が過ぎた。今アテネは「神」という任務を解かれ、夢を見ている。愛しい男の胸に寄りかかって眠る夢。夢の夢。ボルヘスによれば、永遠にもいろいろな歴史があるそうな。人によって、さまざまな永遠があるそうな。愛しい男の胸に抱かれながら、寝言では別のことを言う。すなわち、こんなふうに__、

 「おとうさまが待ち構えていらっしゃるものは、アカイア側の船の炎上する光をご自分で目で見ることね」

 「バカみたいだわ、ポイボス・アポロン、神のくせに人間の間に入って戦うなんて」

 青銅の兜も飾りも朽ち果ててミュケーナイでの惨事知りたし

 11月20日、五節(ごせち)。女楽。公家、受領が舞姫を献上する。23日まで4日間続く。付き添いの女房たちの衣装の張り合いなど、それにまつわる出来事に、人々の心は紛れる。
 11月24日、五節も終わり、宮中はしんとしている。なんとなくもの寂しい。賀茂神社の臨時の祭のための舞楽の練習が華やぎを添えている。若々しい殿上人たちの気配がそこここに満ちている。道長さまの側室、明子さまのお子たち、三名、16、15、14才の男の子たちが、女房の局に入るのを許されて、童女や女房たちの衣装の裾を持ったりしてはしゃいでいる。私は年配(とし)であることを理由に、知らん顔している。
 11月28日、賀茂神社の臨時の祭。奉幣の使いは、道長さま正室、倫子さまのお子、五男、教通さま13才。藤の造花を冠に挿して、その大人びた様子を目にした乳母の内蔵(くら)の命婦は、舞には目をやらず、教通さまを見守りながら涙している。物忌みなので、次の日に入った午前2時頃宮中へ戻る。尾張兼時は舞の名手として、去年まではりっぱに舞楽の長をつとめていたが、いやはや、彼も年をとってしまったものだ。

 日記は一ヶ月飛ぶ。というのも、式部が里帰りしていたためだ。里に帰っていた時は、日記を書かなかったのか? 式部よ。宮中においてのみ、日記は意味を持ったのか?

 12月29日、宮中へ戻る。初めてここに上がったのも、こんな年の押し迫った時だった。あの時は、夢の中にいるようで、何もかもまごついたものだが、今では、すっかり慣れてしまった。慣れるということは味気ないものだ。いやでも自分の年を思わせられる。夜は更けている。中宮さまは物忌みであらせられるから、挨拶にもあがらないで、このまま寝てしまおう。部屋で臥していると、女房たちの話す声が聞こえる。「こちらはなんか様子が違うわね。自分の家では今頃眠りについていたのに、人の行き交う音がして眠れないわ」その声は、妙に艶かしく響くのだった。寂しい、というより、悲しい。悲しい、というより、男が欲しい___。

 年の瀬の島国にゐて一人寝るわれはふけゆく男知らずに

 などと、ひとりごつ。

 12月30日、悪鬼を追い払う宮廷行事あり。弁の内侍が来て雑談しているうちに寝てしまった。化粧するもの、縫い物の練習をする童女、それを教える女房、女房の局はくつろいだ雰囲気だった。そこへ、叫び声が聞こえた。帝のお部屋の方向である。火事かと思って外へ出ると、そうではなかった。「中宮さまは今夜はごいっしょではないはずよ」と、内匠(たくみ)の君が言う。彼女を先頭に、内侍をつつき起こして、われら三人、様子を見に行った。なんとそこには、裸の女が二人。靫負(ゆげい)と小兵部だった。強盗に身ぐるみ剥がれたのだった。台所関係の役人も 警固の武士も、男手は、行事が終わったので、みんな退出していた。ふだんなら直接口をきくものではない身分の低い、食器係りの女に、「御殿に、兵部の丞という蔵人がおりますから、呼んでください」と、私は言ってしまった。兵部の丞は、わが弟の藤原惟規(のぶのり)だった。彼も退出していた。恐ろしかった。やがて、式部の丞、藤原資業(すけなり)が来て、灯台に油を継ぎ足し、明るくしてくれた。身ぐるみ剥がれた女房たちには、宮中のお宝が納めてあるところの衣類が与えられた。彼女たちの元日の衣装はなんとかなるが、あの裸姿は忘れられない。恐ろしかったが、滑稽でもあった。これは、言わずにおこう。

 アテネは式部の日記から顔をあげた。「男知らずに」だって? 子を産んだ女がね。宮中に入る強盗もいるのか。いや、金目のものといったら、ここよね。それも悪鬼払いの行事が終わって、やれやれ、これで悪鬼も払えたし……ってな、警備の手薄を見込んでの押し入り。まったく頭がいいわね。というか、入られる方がバカなのか。式部よ、おまえは、ほんとうに、男を知らないの? 真の男をね。ほんとうはこう言いたいんじゃない? ほんとうの恋を、って。むなしいわね、ただ文字を紙に書きつけるだけの女だなんて。たとえ、歴史に名前が残ったとしてもね。この国は暗い。風がびゅうびゅう吹きすさぶ。あなたが日記に綴った日々は、新暦で言えば、12月から1月にかけて。すでに年を越えている。木の家の片隅にいて、人はそれを「宮中」だといい、自分は「宮仕え」をしていると信じ、女よ、その情念をどうやって晴らすのか? 虚無に虚無を重ね、見えてくるものもある。アテネのスミレ色に澄んだ眼に映った「この国、この時代」は、呪詛を書きつけた紙でさえ、エーゲ海の波のように明るく光っているのだった。

 パープルの女よ恋を与えよう深く眠れば異国にて目覚む

 うーまが、しゃべる、そーんな、ばかな。ほんと。だけど、あいてはひとり、ほーんとに、すきな、ひとにだけー……。そんな歌がありましたっけ。というか、そんな主題歌のテレビドラマが。『ミスター・エド』っていう、アメリカのドラマですけどね。当時、筆者が幼少の時分、それは、テレビ放送が始まってまだそれほど時が経っていない時だった。わが国では、まだまともなドラマが作れなかったせいか、アメリカから買った番組ばかりで成り立っていた。『ミスター・エド』はその中のひとつ。馬のエドが語りかける相手は、たしか、『奥様は魔女』でダンナ役をやっていた、目のぎょろっとした、名前当然、ど忘れ、の俳優がやっていた。あの俳優は、今で言えば、ジム・キャリーの雰囲気であった、ような……。その俳優の声は、柳沢真一、という俳優がやっていた。女優池内淳子のもとダンナである。しかし、結婚生活はごく短かったようだ。どうでもいいことではあるが。その声が今も耳に蘇るような気がするが、今思えば、よい声、よい顔の俳優であったと思うが、当時は、それを十分評価し得なかった。そういう時代であった。さて、馬の方の声は、落語家の三遊亭金馬がやっていた。と、思うが。ハリウッドの馬は、歯を剥いてしゃべる演技をした。それが筆者が「しゃべる馬」に接した最初である。
 つぎに、レーモン・クノーの『青い花』にしゃべる馬は出て来た。名前を、デモクリトスといったか。これは、ギリシア時代の雄弁家から取ったとか。しかし思えば、そのおおもとは、どうも、ホメロスの時代に遡るようであった。すなわち、わがアキレウスの名馬、クサントス。この馬は、馬の姿の「疾風の精」と、西風の神との間に生まれた神馬である。ゆえに不死。
 ゼウスの支援を受けたヘクトルの活躍によって、壊滅状態にあるギリシア側。トロイア軍に、船に火を放たれ、焼かれてしまったら、故郷へ帰ることもできない。で、心配したパトロクロスが、いよいよ、主のアキレウスを呼びにいく。アガメムノンへの怒りから、まだ戦いに出る気はないものの、アキレウスは、パトロクロスに、自分の武具をつけ、自分の槍を持ち、トロイア軍の前に現れるように指示する。それにともない、自分が率いて来たミュルミドネス軍にも戦いに赴くよう鼓舞する。いよいよ本格的な戦いが始まる___。パトロクロスは、アキレウスの名馬二頭を車に繋ぐ。すなわち、クサントスとバリオス。このほかに、補助の馬、ペダソスをつける。ペダソスは名馬ではあるが不死ではない。神馬ではなかったからだ。結局、ペダソスは「戦死」する。
 パトロクロスは大活躍し、ギリシア側の船を火から守る。形勢は変わり、壊滅と敗走はトロイア側に訪れる。それをみかねたサルペドン登場。ゼウスの子。それでお父さまは泣いていらっしゃる。いとしいわが子を、パトロクロスの手にかけて殺すべきかどうか。妹であり妻であるヘラは言う。もし、その子を助けたら、ほかの神が黙っていないだろうと。だって、この戦いでは、多くの神の子たちが戦っているのですからね。自分の子だけ助けたら、怨みを買いますわよ。それでゼウスは泣く泣く、わが子を、パトロクロスの槍にかける。しかし、そのパトロクロスとて、やがては死すべき運命にあるのだ。

 馬にさえ名前のありしトロイアに散った戦士をわれは数えん

 「おとうさま、これは、トロイア戦争の実録ではなくってよ。たとえ、『相手の耳の下を突けば、刃はぐさりと柄まで入り、皮一枚でつながった首は横に傾ぎ、全身ぐったりとなる』とか、『遺体から槍を引き抜くと、隔膜も槍について現れる』なんて表現があったとしても。これは、ホメロスの頭の中で作られた戦いなのよ」
 「だったとしたら、すごいスペクタクルだな」
 「あ……」
 「『おとうさま』か。きみの『おとうさま』は、今頃、どこぞの美術館で、ありもしなかった黄金時代の夢でも見てることだろうよ」
 「オデュッセウス」
 「なんだよ、あのおセンチな詩は? 『戦いの女神アテネ』もいよいよ焼きがまわったな」

 「いやはや、あの娘にもほんとうに困ったものだ」ゼウスは言って、頭を抱えた。「もとはと言えば、この戦争、あの娘のアホなふるまいが原因で起こったようなものだ。ブルフィンチの『ギリシア・ローマ神話』をご存知かな? その本にはこんなふうにある__。もともとアテネは知恵の女神だったのに、ヘラやアフロディテと美を競い合った。あれは、勇将アキレウスの両親、海のニンフ、テティスと、ペレウスの結婚式のことだった。オリンポスの神々はみんな招かれたのだが、ひとり、不和の女神エリスだけは呼ばれなかった。頭に来たエリスは、客のなかに黄金の林檎を投げたんだ。それには、『いちばん美しい方へ』と書かれていた。ヘラとアフロディテとアテネは、それぞれ自分のことだと言い張った。たいてい神々の争い事は、このわしが裁定することになっておるのじゃが、わしは、そんなアホらしいことの裁定をするのが嫌だった。それで三人の女神を、わしの御本尊であるイデの山へやった。そこにはパリスと呼ばれる美しい羊飼いの少年がおるから、それに決めさせるがよい。このパリスは、身は羊飼いにやつしておったが、ほんとうはトロイアの王子であった。彼の幼い頃から、彼のためにトロイアが滅びるだろうという不吉な前兆があったので、羊飼いのなかで育てられたのだった。さて、三人の女どもは、このパリスに、自分に票を入れてくれたら、こうしてやるという約束をそれぞれした。すなわち、ヘレは、力と富を、アテネは功名手柄を、アフロディテは、世界一美しい女を妻にしてやろうと言ったのだ。パリスはアフロディテの味方をした。それで、あそこへ、『世界一の美女』ヘレネのいるギリシアへ連れていってもらったというわけだ。あとは、読者諸賢がご存知にような次第だ。……ああ、それを、あの娘、アテネは、『おとうさま、これは、トロイア戦争の実録ではなくってよ』などとぬかしおって。まったく、甘やかして育ててしまったことを後悔しておる。あれは、母を知らんので、ついかわいそうに思って、ほかの子供たちより贔屓してきたのだ」
 「なにをたわけたことを、おとうさま! もとは無害な神話を、リアルなエンターテインメントに変えたのはホメロスじゃないの! 『物語』はそこここに溢れている、というか、癌みたいに発生する。ホメロスが描くのは、トロイアの総大将、ヘクトルの戦死まで。まだトロイアは陥落していない。例の『コンピューター・ウィルス』に名前が使われる、『トロイの木馬』を考え出したのは彼ではなくってよ。そりゃ確かに、彼は当時の『記憶屋』ではあったけれど。あれは、どっかの三文小説家が考え出したもんじゃないの? 誰もが思いつきそうなことですものね。『トロイの木馬』と『ウィルス』のアナロジーなんて。問題はトロイア戦争以後、よ。あなたはどっちを取る? トロイア側かギリシア側か。前者を取れば、物語は、トロイア戦争の生き残り、アエネイアスについて、『建国の土地』を目指す旅に出ることになる。トロイア王家の分家筋に当たるアエネイアスは、アフロディテを母に持つ青年、戦火のトロイアを、老いた父親と妻子と、生き残りの人々と、脱出する。やがてたどりつく土地は、トロイア人がもともとそこから出て来たと言われるイタリア。すなわち、ローマを建国する。ここからは、ラテン文学になっていく。向こうの方にはダンテも見える。早い話が、マフィアの先祖よ。さて、ギリシア側を取った場合は、もちろん、そこから始まるのは、機略縦横と形容されるオデュッセウスの物語。甘美な恋愛遍歴よ」
 オ「甘美なだけじゃないけどね」
 ア「いずれにしろ、『神話』の世界では誰もが主人公になりたがっている、馬でさえもがね」
 ゼ「そういえば、あの馬はどうなったかね?」
 ア「アキレウスが、ヘクトルの妻アンドロマケの実家の町を陥したさいに戦利品として連れ帰った名馬ペダソスは、二頭の神馬の、いわばスペアタイアみたいな役割を果たしていたけど、あんたの息子サルペドンがパトロクロスを討とうして投げた槍に当たって死んだわ、ほかの二頭と違って不死ではないのでね。そして結局、大活躍したパトロクロスもやられる。いったん敵を船から引き離したら戻ってこい、調子に乗ってイリオスまで兵をすすめてはならないというアキレウスの戒めを無視したのでね。って、そういう『脚本』を用意したのはおとうさまじゃないの! まずアポロンによって、兜を取られ、目を回され、腑抜けのようにされたところへ、エウポルボスなる兵士の槍を受ける……」
 ゼ「そして、ヘクトルに止めを刺される……」
 ア「このあたり、だまし討ちに合った森の石松みたいで、すごく時代劇してるわね」
 ゼ「わが子、サルペドンの仇じゃ」
 ア「もう……」
 オ「でも、パトロクロスは死んでいくとき、ヘクトルに向かって、彼の死を予言しますよ。『おまえはアキレウスの手にかかって果てる』ってね」
 ア「『なんでそんなこと、おまえにわかる!』ヘクトルは言って、パトロクロスの死体から青銅の槍を抜く」
 オ「そして、例の二頭の神馬を繋いだ車に乗ったアキレウスの従士、これはさっきまでパトロクロスに付いて従者だけど、それを追う」
 ア「しかし、不死の神馬は駿足で走り去っていく」
 ゼ「ぬあんたる!」

 トロイアを陥とすためには弓がいるその弓のため待つ物語


(『青い花』第2部の1「トロイア戦争は起こらないだろう」了)




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