第2部2「べつの物語」(1)
トロイアの総大将ヘクトルは死んでも、まだトロイアは滅びなかった。援軍がいたからである。ひとつはエチオピア、いまひとつはアマゾネス。ことに女王ペンテシレイア率いるアマゾネスは強かった。
ア「しかし、所詮女、オレに組みしかれて泣きわめいておった」
ペ「そういうおまえは……アキレウス!」
ア「ペンテシレイア、あんたの体は、おいしかったぜ」
ペ「ばかね」
ア「ほんとうのところなら、あんたは殺されていたんだぜ。でも、こんないい女を殺すのは惜しいとオレは思った。で、いただいたあと、オレの情婦にならないかと持ちかけた。なったら、命は助けてやると。あんたは喜んでしがみついたね」
ペ「あっははは……!」
ア「……?」
ペ「この姿をよく見るがいいアキレウス」
ア「あ……あなたは……アテネさま」
ペ(ア)「ばかめ、おまえが『犯した』のは、誰あろう、このアテネなるぞよ」
ゼ「む、むすめや! いやはや……」(頭を抱える)
ア(ペ)「アキレウス! 人間の分際で、いやおまえの母は女神ゆえに、おまえは半神ということになろうか、半神の分際で女神を犯すとは何事! 必ずや祟りがあるぞよ」
ア「こ、これは、罠だ!」
ゼ「(ひとりごち)ああ、それほどまでに男日照りとは……」
アテネ「おとうさま、なにおっしゃってるの?」
ゼ「だからおまえにはその第一部で」
アテネ「第一部? もう忘れてしまったわ。たしか、20世紀末に生きるオデュッセウスに、私と結婚しろと脅しをかけた」
ゼ「おまえはなんであの話を蹴ってしまったんだ?」
アテネ「だってぇー、あっちが乗り気でなかったんですもの」
ペンテシレイアの一件のあと、アキレウスは、ヘクトルの葬儀に姿を見せた、彼の妹の一人、ポリュクセネにも一目惚れし、彼女をくれるなら、和平のために尽力しようとトロイア軍に提案した。アポロンの宮殿で彼女との結婚の相談をしているところを、彼女の兄、パリスの毒矢に射られた。当たった場所はもちろん、踵。しかしてアキレウスも死んだ。
しかしトロイアはまだまだ陥ちない。それを陥とすためには、ヘラクレスの矢が必要なのだ。ああ、その矢と言えば、ヘラクレスの友だちピロクテテスが持っている。そのピロクテテスと言えば、トロイアに来る途中、水蛇に咬まれ、足でまといだし、傷に苦しむ声が兵士たちの士気を低下させると言うので、レムノス島に置き去りにされた。置き去りを提案したのは、ほかならぬオデュッセウスだった。そしてそのオデュッセウスが再び彼を連れにいく。果たして、ピロクテテスはなんと答えるやら……。いや、それよりも、生きているのやら……。
一方、式部は、例の強盗事件の翌日の一条院で元日を迎え、儀式に参列する女房たちの衣装の観察に余念がなかった。あの方の重ねはこうで、袿はこうで、染めはこうで、布地はこうで……、姿形はこうで、歩く姿はこうで……。式部よ、そんなことしている場合か? おまえが観察するその衣装の向こうの儀式を通して、政治は執り行われる。それを牛耳るのは、ほかならぬ藤原道長と、そのほか、優秀な男どもだ。おまえは、言わば、仮の宿と言っていい一条院(御所が火事にあったので、貴族の私邸を借りている)しか知らない。そしてこの国の複雑な政治システムにも無頓着で、日記には、ひたすら人々の姿形ばかりを描写している。
わたしになにができるというの? わたしには、長い物語を書くことしかできない。長い長い、永久に終わらないかのような物語を。たとえ人がそこに恋物語しか見ないにしても、最も長く生き延び、最も多くの読者を獲得するのはわたしよ。『御堂関白記』(道長の日記)がなによ、あんなもの、誰も読もうとする人なんかいないわ。あたしはいまも、日本で最も有名な作家よ。
正確な話をしよう。この「物語」が交互に語り直そうとしているテキストのうち、『イリアス』は今やっと第十六歌が終わったところだというのに、『紫式部日記』は、余すところ二十数ページとなった。この調子でいくと、『紫式部日記』の方が早く終わってしまう。だから、こっちは「出し惜しみ」しつつ進まねばならない。そんなことは初めから予想はついた。『紫式部日記』の方が短いのだから。だからそういうペースのつもりだが、でもやはり、『イリアス』の速度が遅すぎたのか? ついでながら、私はレムノス島の洞窟に棲むピロクテテスというものである。私が水蛇に咬まれたために傷が化膿し、ギリシア軍にこの島に置き去りにされ、獣や夜露からわが身を守るために身を寄せたこの穴は、読者諸賢の予想どうり、とんでもない穴だった。なんせ、紫式部になれるという穴である。そのことについてはいずれ語るとして、正確な話というのは、ほかならぬ、この私についてである。私もまた、あの世界一美しいと言われるヘレネに魅せられ、彼女に求婚した一人であった。そして彼女がトロイアのパリスにさらわれたと知った時、かねてからの約束、言わば、「求婚者同盟」とも言うべき男たちの約束どおり、ヘレネ奪還のための戦争に加わった。トロイアの西にあるクリュセという小さな島のアテネの崩れた祭壇に犠牲を捧げよという予言がギリシア軍に下った。しかしその祭壇の場所を知っているのは、かつてヘラクレスについて訪れたことのあるこの私だけだった。私がギリシア軍を案内しようとしてその島へ行くと、そこで水蛇に咬まれたのだ。祭壇は水の中にあった。
「いったい何が言いたいのよ、ピロクテテス」
「そういうあなたは、アテネさま」
「相変わらず他人行儀な男ね、おまえの態度を見ていると、まるで」
「まるで?」
「容疑者と彼女を保護しなければならない刑事の関係のようだわ」
「神と人との距離は私の一存ではどうにもなりません」
ゼ「つまりおまえは、女たらしのオデュッセウスの対極に、ストイックなピロクテテスを配置するのだな」
ア「まあね。お父さま、あたくし、今日は酔っぱらっちゃってますので、お先に休ませていただきます。そうでなくても、このあたりは、ややこしくて、全然先に進めないような感じがしますの」
蛇の毒がまわって足が膿んだ私は、その痛みにうめき声を上げ、またその傷は異臭を発した。そんな男がいたのでは、足でまといだし、全体の士気も低下する。この男を近くのレムノス島へ置いていこう。そこは植物も豊富に茂っているし、眠ることができる洞窟もあるだろう。そういうオデュッセウスの提案に従って、私はレムノス島に置き去りにされた。この島の洞窟に棲んで十年になる。そして今またオデュッセウスがやってくる。再び予言が下り、トロイアを陥落させるためには、アキレウスの息子とヘラクレスの弓が必要であると。アキレウスの息子はネオプトレモスと言って、今オデュッセウスとともに、私を連れにこの島にやってくる。心根のやさしい青年だ。そして彼らがやってくるのは、私がそのヘラクレスの弓を持っているがためである。その弓の射手である私もまた必要なのだ。そのヘラクレスの弓は、彼が自殺しようとするのを助けたさい、お礼にもらったものなのだ。
ゼ「ピロクテテスまで紫式部になっちまったら、いったいどうなるんだ?」
ア「甘いわね、お父さま。なにもピロクテテスの洞窟ばかりではなく、『穴』はそこいらじゅうに開いてましてよ」
ゼ「そちはわしを誰じゃと思っておるんじゃ? 卑しくも神々の王じゃぞ。そんな『穴』くらいわしも承知しておる。アエネアスが巫女シビラに導かれて下りる地下界、その『アエネーイス』の作者ウェルギリウスが案内人となるダンテの地下界……。しかし、誰も彼もがその、紫式部になるのか?」
ア「さあね。入ってみないとわからないわ、その『穴』へ」
トロイアから遠く離れて、アエネアスはイタリアを目指す。そこはまだイタリアとは呼ばれていなかった。アエネアスはトロイア王家の分家の王である。トロイア王家の跡継ぎヘクトル亡きあと、新しいトロイアを再興するため、彼は家族と生き残った民を連れてトロイアを出る。それはさながら「出エジプト」のようだ。苦難を経る船旅は、さながら「オデュッセイア」のようである。つまり、アエネアスはすべてにおいて、なにかの二番煎じ、亜流の英雄である。彼はそれを気に病んでいた。
ア「しかたないわ、『アエネーイス』の作者のウェルギリウス自体がホメロスの亜流なんですもの」
ゼ「しかし、このハナシは『情報』として、より真実味があるぞ」
そもそもトロイア民族は、イタリアあたりの出身であるという。それが、もとの場所へ帰って、新しい国家を打ち立てようというのである。
ア「あ、そのハナシもどっかで聞いたことある」
ゼ「のちの世のことじゃろう。イスラエルとやらが、真似したんじゃ」
アエネアスはまず、いまのシシリー島へ着いた。そこで一行のなかで、もうこれ以上船旅をしたくない一派の反乱が起ころうとした。彼はそれらの人々をそこに残してイタリア本土を目指した。
ゼ「つまり、『落ちこぼれ組』が、マフィアどもの祖先だというわけじゃ」
ア「も、お父さま、ご自分だって、マフィアだったくせに。第一どれもこれも、もとはと言えばお父さまが原因となっているのよ」
ゼ「わしはローマ人どもの話など、公式記録として認めんぞ」
ア「私だっていやよ、ミネルウァなんて呼ばれるの」
ゼ「わしはユピテルだと。まるで腑抜けみたいだ」
つまり、アエネアスの冒険譚『アエネーイス』は、異邦人の物語なのだ。そこで話されるのは、もはやギリシア語ではない。ラテン語だ。
「ギリシア V.S. トロイア」は、「ギリシア V.S. ローマ」となって、その後も延々と続く。「ギリシア語 V.S. ラテン語」。
ア「結局なにが言いたいのかしら? ウェルギリウスは」
ゼ「ローマ帝国は永遠ですってことじゃろ」
ア「要するにプロパガンダ作品ってわけ?」
アエネアス、愛と美の女神アフロディーテが、人間の男と契って生んだ息子。
ア「ふぁ〜〜……(あくびの口を押さえながら)お父さま、やっぱり私休みます。おやすみなさい」