「青い花」

第2部2「べつの物語」(2)


 東経12度線は、イタリア半島を南北に、ほぼローマとベネチアの西を結ぶように走っている。この地点は、その昔、西方の異民族と東方からやってきたギリシア民族のせめぎあう地点であった。その線にそってさらに南へ下ったシチリア島も、「東西」の要所であった。あの地に、ローマがローマとしてなったことにはわけがあった。中央にはテベレ川も流れているし。アエネアスがトロイアを発ち、イタリアへと向かい、ローマを建国し、そのローマが、アウグストゥスのローマに結びつくには、なお長い時間が必要だった。なによりアウグストゥスには彼の政権を正当化する「歴史」が必要だった。それが、ウェルギリウスに『アエネーイス』の完成を急がせた理由であった。その完成を前に、ウェルギリウスは疲労し、休養とリフレッシュを兼ねて、ギリシアから小アジアに三年にばかり旅に出ようと計画した。もし旅の途上で自分が死ぬようなことがあったら、『アエネーイス』の未刊の草稿は破棄してくれと友だちの詩人に言いつけて。旅の途中、ウェリギリウスは、東方の遠征からの帰途にあるアウグストゥス帝に出会った。そこで帝は詩人をむりやり連れて帰ろうとした。その時、詩人はすでに死に至る病にあった___。
 「彼らが出会ったその街がアテーナイだと言いたいのね。つまりそれは、あたくしの意志がどこかで働いていると」
 「歴史を描いた作品の多くは、権力者の意図が反映されております。未刊ゆえに廃棄してほしいという詩人の意志は無視され、その作品は整えられ、刊行されました」
 「刊行ったって、紀元前十何年のことよ。いったい、どんな形の、どんな人々を読者に想定しての『刊行』なの?」
 「さあ、わたくしもよくは知りません。おそらく、羊皮紙に羽ペンで書かれた書物を、ローマの貴族を読者に『刊行』したのではないでしょうか」
 「あなたは誰の命令でもなく、どんな権力者の制約もなく『歴史』を書いたと言いたいのね」
 「女神さま、私はヘロドトスではありません。私は何も書きませんでした」
 「そういう言い方って、なんかすごく冷たい言い方ね」
 「なにごともあなたの御意のまま、あなたは神さまではないですか」
 摂氏25度、湿度40%の風が女神の太ももを撫でた。その風が彼女のスカートのスリットを割り、汗ばんだ太ももを露にした。女神はため息を洩らした。
 「ああ、大理石の像であることに疲れたわ」
 彼女の開かれた両ももの間に、白いパンツの男の脚が割って入った。大胆な男、その瞳は青く、肌はショコラの色だった___。
 ゼ「ううむ、その男は誰じゃ!」
 ア「せっかくのいいところを、邪魔しないで、お父さま!」
 ゼ「ローマは鬼門じゃ、近づくでない!」
 ア「無理よ、すでに始まってるわ!」
 ゼ「いったい、なにが、始まっておるというんじゃ?」
 ア「レキシよ」
 まだ建国前のローマの地で、「二人」はサルサを踊った。サルサ、トウガラシにトマト、オリーブ油、レモンを混ぜたこのソースはおろか、ジャズにリズム&ブルースを混ぜたこの踊りもいまだ「発明」されていなかった。「二人」ははるかに未来のダンスを踊った。

 トロイア戦争→@オデュッセウス(『オデュッセイア』)→@ー@ジョイス(『ユリシーズ』)
        Aピロクテテス(ソフォクレス『ピロクテテス』、トロイア戦争に参加し、蛇に咬まれた傷ゆえにレムノス島に、オデュッセウスの提案によって置き去りに去れた援軍の(一応)大将)
(「ギリシア側」の物語)


        Bペンテシレイア(ヘクトル亡き後のトロイアを援護したアマゾネスの王女、アキレウスに殺される→ひょっとして、シュークスピア『夏の夜の夢』へと続く?)
        Cアエネアス(トロイア王家分家アンキセスと、女神アフロディーテの間にできた息子。トロイア陥落後、脱出し、新トロイアを打ち立てるべくイタリアへ向かう。ローマ帝国初代皇帝、アウグストゥス時代の詩人、ウェルギリウスによって『アエネーイス』が書かれる)→Cー@オヴィディウス『変身物語』→Cー@ー@クリストフ・ランスマイアー『ラスト・ワールド』(『変身物語』を下敷きにしたウェルギリウスを尊敬していた彼より数十才年少の詩人、オヴィディウスの物語)
 CーAダンテ『神曲』(その詩人ウェルギリウスが地獄と煉獄の案内者となる) CーBヘルマン・ブロッホ『ウェルギリウスの死』(ユダヤ系オーストリア人作家ブロッホが、亡命の地アメリカで完成させ、ナチス壊滅の年に刊行された)
(「トロイア側」の物語)

 こうしてまとめてみますと、ウェルギリウスあっての「トロイア」ってことがわかりますわ。彼が『アエネーイス』を書いたがために、というか、おそらく、かの「ローマ帝国」の栄光ゆえに、『アエネーイス』は残り、トロイアも輝いているのですわ。これはあきらかに、ウェルギリウスのホメロスへの挑戦ですわ。そして、ジョイスが『オデュッセイア』を書き直すのなら、自分は『アエネーイス』だというブロッホの意図も見えます。
 ゼ「もうよい。物語などというものは、癌細胞みたいに、どこにでも生まれるものじゃ」
 紫「赤穂浪士たちの物語しかり」
 ゼ「ややっ?」
 紫「ねえ、あの『二人』って、褐色の『光源氏』とおたくの娘さんよ」
 ゼ「そういうあんたは……」
 ア「おとうさま、そやつは、今は『ローマ』に寝返ったアフロディーテ!」
 紫(=アフロディーテ)「ふん、あんたのダンスってイマイチね」
 ア「なによ、ヴィーナスなんて安っぽい名前になっちゃって。場末のスナックじゃあるまいし」

 ヴィーナスといふは安っぽいローマの名堕ちてゆくのも歴史なりけり
 

 ♪べあとりーちぇ、まだねんねーかい? ……ここは、フィレンツェの名門、アエギエーリ家の地下室の入り口である。いま、刺し又のような、ロウソクが三本差してある燭台を手にした当家の主人、ダンテ・アエギエーリに案内されて、式部は地下へと下りていく……。
 「わが師、ウェルギリウスは、決してプロパガンダ詩人ではありませんでしたよ。彼の望んだものは『世界平和』」と、先へたって大理石の階段を下りながらダンテが話した。
 「『わが師』って、ダンテさん、あなたは1265年のお生まれ、ウェルギリウスさんは、紀元前70年のお生まれじゃないですか。あなたが勝手にし私淑してるというだけでしょう。それに、望んだものは『世界平和』だなんて、ミスコン出場者の『決まり文句』じゃあるまいし」
 「シニョーラ・シキブ。あんたって、いちいち口答えなさるんですな。失礼ながら、わが詩人が知的で内省的な世界を描いていた時代、あんたのお国はどんなでした?」
 「う……。それを言われると辛いわ」
 「『年表』によれば、『弥生時代』とか……。ねえ、『弥生時代』って、どんな時代だったんです?」
 「ダンテさん、その口が災いして、あなたは結局、『失脚』したのではありませんか?」
 「ははは! 勉強不足! 私の作品を読みたまえ!」
 「わたくしイタリア語は……。ねえ、いったいどこへ案内してくださるんです? お宅の地下って、ずいぶん深いんですね」
 「まあ待ちなさい。もう少し下りれば……」
 マレーナ! シラクサでいちばん、美しい女。12才のぼくは一目で恋に落ちた__。
 「シラクサって、いったいどこの街?」
 「シチリア島の西海岸の町ですよ」
 「紀元前から、ギリシアにとっても北アフリカのカルタゴにとっても、戦略的にも商業的にも重要な町であり、くりかえし侵略された町ですね」
 「2000年後に、12才の少年が27才の人妻に恋する話ですか。マスの掻きっこが何度も出てくるのは、見ていてあんまり美しいものじゃないですね」
 「お父さま! いいかげんになさって! アエギエーリ家の地下を下りたら、映写室があったなんて」
 「地獄だと思った?」
 「それにダンテまで出してくるなんて」
 「どれもこれも神意であるぞよ」
 つまり(なにが「つまり」だ?)、レクター・ハンニバル博士が逃げ延びていた先が、今回、「イタリアのフィレンツェ」だったのには、それなりの理由があったというわけだ。つまり、「イタリア」は、紀元前200年代、カルタゴのハンニバル将軍にたびたび侵入され蹂躙された___。そういうレキシが下敷きとしてあるのだ。ヨーロッパというか、地中海世界は、2000年の時の流れなどあまり問題にしていない。いま、ギリシアは、昔ほどの勢力は保っていないが、その時だって、ほんとうに、「世界の中心」であったかは疑わしい。オリンポスの神々がそう思い込んでいただけのことだ。
 戦争未亡人となったマレーナは堕ちていく。おそらく夫の「戦死」の知らせが彼女を自暴自棄に走らせたのだ。はじめは、強引な男にしかたなく身をまかせ、そのうち、食べ物のために、娼婦となっていく。終戦となった時、町の女たちに嬲り者にされ、髪を切られ、町を追い出される。そして彼女がいなくなり、難民に占領された家に「戦死」したはずの夫が帰ってくる。彼女を、なす術もなく見守り続けた少年は、その夫に手紙を書き、彼女が乗った電車の行き先を教える。やがて、マレーナは、夫と手を携えて、堂々と、町に戻ってくる。あっけにとられる町の人々。このマレーナこそ、アエネアスの母、アフロディーテだった!
 「オリンポスへ帰るぞ」

 いや、ちがう。マレーナは、幼い源氏の君が恋した、義母藤壺女御だ。そして12才のレナート少年は、もちろん、源氏の君だ。手脚がひょろりと長く、まだ十分に肉がついていない昆虫を思わせる体つきが、青年よりも性への欲望が露出して見える。
 「ふん、『初恋』だなんて、笑わせるわ。ただ『やりたい盛り』だったってだけじゃない」
 「そちはそのような物語を書いたというのか?」
 「まあね」
 「式部よ、そのほうは、妙に蓮っ葉に見えるぞ。重ねもそのように短く切ってしまって」
 「21世紀を見ちゃったからかしら?」
 「なに? 21世紀とな? その、世紀というのは、西洋の暦のことか? 暦なら、毎年、暦博士が、その年の吉凶を記入して、貴族の家に配ってくれる。それだけで十分じゃ。なにも異国の暦まではいらぬわ」
 「道長のオッサンよお、その家宝にも相当する暦だけどさ、21世紀じゃあ、街の本屋で売ってんだよ」
 「知っておる。わしもひとつ買いおった。しかしあれは、日記を記入する余白がない。あれでは、子々孫々に残す、『御堂関白記』が記せぬわ」

 註:平安時代末期、「女がすなるにき」というものは、「男がすなるにき」というものと大いに違った。「男がすなるにき」というものは、すなわち、「貴族の男がすなるにき」というもので、「あたしって、どう生きたらいいか、わかんない」などと、パーソナルな悩みをつれづれなるまま綴るものではなかった。貴族のお仕事といえば、だいたいが、宮廷での儀式を滞りなく執り行うことで、この頃には、そういう段取りも、ほぼ固まってきた。そういうやり方の一々を、あの時はこのようであったと、暦(今日、毎年暮れになると、占いの本とともに、書店に並ぶ、高島歴のようなものであると筆者は想像する。あれの、各日の条に、その日の吉凶などの情報ととも、数行の余白が付いているものではないか?)の余白に、「毎朝」記すのが、言わば、「現役」の貴族の務めであった。そして、それは、その家の貴重な「情報」源となり、しだいに、「他人」には見せないようになっていった。そうした儀式のいちいちの作法を知らないと、それは勉強不足ということになり、宮廷で恥をかくことになる。だいぶ時代を下った例ではあるが、れいの赤穂浪士たちの主人、アサノタクミノカミも、殿中で恥をかいたのは、ひとえに「勉強不足」だったからではあるまいか、と筆者は勘ぐる。

 「女はいいよなあ、日記にすき勝手なこと書いてりゃいいんだから」

 などと言いながら、紀貫之は、道長の時代より70年以上も前に、「女がすなるにき」というものを書いてしまったのである。

 抱かれたい白い馬にて夜を越える紀貫之の薔薇色の胸



前章へ

次章へ

目次へ