外から見たISO その2 08.07.06

第三者認証制度の根本的欠陥は、審査を依頼する人が審査する人にお金を払うからだと語る人がいる。
より正確に言えば、「第三者認証制度は、実質的に審査を頼む人と審査を受ける人が同一人物であり、その人が審査をする人にお金を払うので公平性、信頼性がない」そして「最終的に悪貨は良貨を駆逐し質は低下する」というのがその理屈である。
形式的には、審査依頼者は一般顧客であり、審査機関(認証機関)の経営者が依頼者の代理者とされている。
おっと、大変なことに気づいた。ISOばかりが俎上に上がっているが、それ以外の第三者認証制度、つまり○○アクション、○○ステージ、その他大勢はどうなのだろうか? これらのスキームにおいてはまだ登録数が少なくて、問題が顕在化していないのだろうか? あるいはISOに比べ元々社会が信頼していないので問題とされないのだろうか? グリーン経営認証制度はバックに行政が付いているから信頼性が高いのだろうか?
考えると興味は尽きない。

これが正しい論かどうか、考えたい。第三者認証に限らず、お金のやり取りする取引というのはたくさんある。
まず商取引はどうだろうか?
商品を買うとき、一方は原価や価値に比較して高く売ろうとし、一方は機能や価値に比較して安く買おうとする。もちろん取引金額は売買当事者二者の意向だけではきまらない。市場の商品の需給、他の供給者、他の顧客なども関わりがある。
ピンと来なければ家を買う場合を考えてみよう。買う方は世間相場を調べて相場より少しでも安く買いたいと望み、売る方は相場より一円でも高く売りたいと思う。双方共に安い金額で取引しようとか、家が傷んでいても高く取引しようなどとはしない。お互いの意向は拮抗し、妥協点を見出す。そしてお互いの綱引きで取引が決まるということが大事だ。

物の売買でなく、サービスの依頼はどうだろうか?
会社のお掃除をどこかに依頼する場合、お掃除の結果は頼んだ人に返ってくるので、良いお掃除をする人に頼むというフィードバックがかかる。お掃除の手間賃が高いとか仕事ぶりが悪ければ、業者を換えるのは自由経済において当然である。
廃棄物処理委託はどうだろうか?
この場合、お掃除と違い、廃棄物処理というサービスの結果は頼んだ人に返ってこない。だから頼む方は廃棄物が目の前から消えればよいので業務の質より費用が安ければいいし、頼まれる方も仕事ぶりを依頼者から評価されないので仕事が悪くても注文がとれないわけでもなかった(過去形である)。取引する二者には落とし所を決めるフィードバック機能は働かない。綱引きで同じ方向に綱を引いたなら、綱引きにならない。だから値段は安く、頼まれた方はちゃんと処理せずその辺に不法投棄するケースが多々あった。
これではいけないと廃棄物に関わる問題とその責任は拡大排出者責任(?)となり、廃棄物処理を誰に頼もうとその最終責任は排出者にあると変わった。その結果、排出者は委託するとき、少し費用が高くても、ちゃんとしたところに頼もうという力が働くようになったのである。それが罰金などのリスクを含めたトータル費用が低減すると理解したのだ。

話はまた飛ぶ
大昔から保険という考えはあった。傭兵として戦争に行って生きて帰ればハッピーであるが、常にそうとは限らない。だから出陣する前に兵隊が自分の金を信頼できる人に預けておいて、戦死した場合は指定した人に送金してもらうということが考えられた。それは保険の一形態だろう。
商取引、あるいは結婚、あるいは敵対する暴力団の手打ちにおいて、有力な第三者が立ち会いを務めるということは、以降もめたらその立会人が責任を持って処理するという、ある意味保険である。
いずれにしても保険というのは、何事か不都合なことが起きた場合に備えて保険をかける人がいて、その役目を引き受ける人(アンダーテイカー)がいて成り立つ。もちろん頼まれる方は無給ではできないので、引き受けるものごとの大きさと危険性によって手数料が異なる。ただし結婚の立会人(仲人)のような場合、有力者の社会的責任として無償でアンダーテイクすることもある。
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21世紀の現在、本当の意味の見合結婚はほとんどなく、頼まれ仲人も大幅に減っている。ということは、離婚というものがリスクではなくなったからというのは当たっていないだろうか?
最近は男も女もバツイチの方が未婚より価値が高いような気がする。

保険の対象が複雑になると、対象物の保険を引き受けてよいか否かの判断が困難となり、専門家に安全か危険かの判断をお願いするようになる。
更に船のような大きな複雑なものは完成品を見ただけでは良否が判定できない。そこで船級業務というものが発生する。船級業務とは、船舶の技術上の基準を定め、設計や建造の過程でこの基準が守られているかを検査し、保証することである。それはやがて大型プラントなどにも業務範囲を広げていった。
ULはそのものズバリである。ULのフルネームはアンダーライターズラボラトリという。100年も前、アメリカで電気製品による火災が多いので、保険会社は音をあげた。そして電気製品に一定基準を定め、保険業者が火災保険を払うのはこの基準を満たした製品に限るとしたのだ。そして電気製品を検査する機関としてULを作った。
ULの認定を受けるには、製造メーカーはULにサンプルを出して検査してもらう。製品が合格すると、次に工場にきて安定して生産できるかどうか、部品の管理がしっかりしているかなどをチェックされ認定を受けることができる。
この場合、検査費用が製造メーカーが出すが、過去100年間検査が低きに流れて負のスパイラルが起きたということはなかった。なぜなら、問題が起きたら保険料を払うのは製造メーカーではなく保険会社なのだから双方の利害は拮抗し、最善の所に落ち着くのは商取引と同じである。
火災保険であれ、やくざの手打ちであれ、仲人であれ、裏書者(アンダーライター)がその責任を果たす限りにおいて、その取引は信頼され有効であった。
インターネットの取引は相手が見えないから売る方も買う方も不安である。
それで仲介する仕組みとしてエスクロー・サービスなどが考えられた。

ISOに限らず第三者による検査や認証というものはほかにもある。
会計監査というものは監査を受ける人からお金をもらう。だからエンロンのような事件も起きたのだろう。しかし、粉飾決算などの問題が発覚したら監査した公認会計士はその職務における生命は絶たれるし、監査法人も刑事責任を問われ、多くの場合倒産である。
見逃しの原因が癒着でなくて、会計士の未熟さであっても同様の責めを負う。

以上を踏まえるとISO審査はどうだろう?
問題は簡単で「第三者認証制度の根本的欠陥は、審査を依頼する人が審査する人にお金を払うから」ではないようである。
「第三者認証制度の根本的欠陥は、審査する人が責任を取らないから」ではないのだろうか?

結論を先に書いてしまったが、仮に「第三者認証制度の根本的欠陥は、審査を依頼する人が審査する人にお金を払うから」が正しいとしよう。すると、審査費用を第四者(?)が払えば審査は低きに流れないのだろうか?
さて、一体誰が審査費用を払うべきなのだろうか?
1987年の認証機関のスタンスは購入者の代理人という考えだったので、そうであれば購入メーカーが審査費用を払えばよいのではないか。だって購入者による品質監査が省略できるのだから。
当時は審査機関でなく認証機関と名乗っていた。責任を回避するために1994年頃審査登録機関と名を変え、そして今またカッコ良いと思ったのか認証機関を名乗るようになった。酒場の女の源氏名のようだ。 

しかし、第二者による品質監査であれば自分の目で見て確認するわけで、最終責任を自分が負うとしても納得できるはずだ。もし第三者に監査を依頼したなら、監査のミスによる損害は第三者に請求するというのはまっとうではないか?
仕事をするとか、お金をもらうということはそういうことなのだ。
ISO14001の場合、品質と違いステークホルダーは購入者に限定されず不特定多数であり、費用負担者を公共機関、あるいは一般市民からの税金とした時でも、監査結果の責任を負うことは変わらない。
数学的帰納法ではないが、誰が費用を払おうと審査の責任を負うことは必須であり、審査の責任を負わない限り仕組みとして成り立たないのである。
言い換えると、審査を受ける人が費用を負担する現在の仕組みでも、審査の結果責任を認証機関が負うならばそれは十分成り立つし、質が低下するということはありえない。
審査機関から認証機関と己の名前を立派にしたことでもあるから、第三者認証という意味を認証した組織(企業)に問題が起きたらその責任を認証機関がとることに変えれば世間はISO認証を見る目を変えることは間違いない。
それはどういうことかというと、例えば
食品の賞味期限を偽っている会社が判明したら、その食品製造会社が記者会見するより早く、認証機関は報道機関に対して、審査が不適切であったことを謝罪し、それによる社会的責任を負うこと、被害者を救済することを表明し、そして審査の不具合の原因追求と関係者の処分を発表することになるだろう。
それこそがundertakeであり、それを保証するのをunderwriteという。
賭けてもよいが、そういった仕組みになれば、翌日にも全部の認証機関はマネジメントシステム認定を返上することは間違いない 


結論などないのだが、結語を書くならば・・
結果責任を負わない第三者認証制度は、もともと存在が許されないのではないだろうか?



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