コンプライアンス 08.11.30

20世紀末にコンプライアンスという言葉を聞いたとき、私はばねのコンプライアンスのことかと思った。私が機械製図工として社会に出たことは何度も書いている。理科で習うばね定数をスティフネスといい、その逆数をコンプライアンスという。それが頭にこびりついていたので、20世紀末に企業犯罪が増えてテレビや新聞で「コンプライアンス」「コンプライアンス」と言われるたびにそれを思い出したわけだ。
しかし最近ではコンプライアンスはばねと関係なく、遵法という意味に使われている。もちろん原義はまったく同じで、the act of submitting; usually surrendering power to another つまり力を受けたらそれに従うということである。
コンプライアンスを「遵守」と訳せば上品であるが、俗な言葉で言えば「長いものには巻かれろ」ということでもある。
もっともコンプライアンスの意味というか範疇も時代とともに変わってきているようで、ISO14001では1996年版でも2004年版でもコンプライアンスは「法規制を守ること」に限定されている。しかし現在では企業の倫理遵法という場面で使われるコンプライアンスは法規制より広く、「社会慣習や常識というものも含めたものを順守する」概念として使われることが多い。
いずれにしても我々は社会の中で生きているのであるから、共通認識としてのルールを守ることは義務以前に自らが安心して暮らしていくために必要なことである。
そうではあるのだが現実の世界ではお金、環境、品質、知的財産権、その他すべてにわたりコンプライアンスは徹底していない。テレビをはじめとするマスコミは毎日の記事、ニュースに事欠くことなない。
もっともマスコミ内部の不祥事はお互いにかばい合い、ニュースにはならないようである。 
ISO規格においてコンプライアンスはどういう位置づけなのかとなると、これは明確である。ISO14001ではトップ経営者が方針の中に遵法を明記しなければならないことになっている。
しかし規格にそうあっても規格を読んだ人は、これを「法を守る」と理解していないのではないだろうか? ISO規格ではルールを作れとか方針を立てろとあるが、ルールを守れとか方針に従って突き進めと平たく書いていない。規格に「方針を働く人に周知せよ」とある。はたして周知とは何か?どういうことか?となると、ほとんどの会社では額に入れて掲示するとか、印刷物を配るとか、暗唱させるということをしているのではないだろうか? それが「周知する」ということかと考えると、私はいささか羞恥を覚える 
規格の意図、いや文章を素直に読めば、方針を周知するとは方針に従って行動することであることは明らかだ。
もっとも環境目的は方針とつながりなく環境側面から選ぶという論が審査員にも組織側にも蔓延している現在、方針は規格の後半とつながりが乏しく、方針を周知することは限りなく困難に思える。
同様に、文書管理のルールを作れとあれば、文書管理のルールを作るだけでなくそのルールを守って仕事をすることは当たり前のことだ。
面白いことに文書管理のルールは守れと言われなくてもだれでも守ることだと理解して、どの会社の内部監査でもよくチェックしているようだ。ということは守る守らないということは、明文されているかいないかということではなく、守るのが簡単か、簡単でないかということによるのだろうか? 
もっともレベルの低い会社の内部監査では文書管理が悪いというのが不適合の多い上位項目に来るのが常だ。内部監査の不適合が文書管理と教育訓練の項番で多いか少ないかが、QMSやEMSの成熟度の管理指標になる。
いや、ルールを守るということは当たり前ではないのかもしれない。
はたして、人はルールを守れと言われたとき、なぜ守るのだろうか?
罰則があれば守れという圧力にはなるだろう。義務論からはそうなるかもしれない。しかし目的論的考えからは(おお!何かこ難しいことを言いだしたぞ)罰則より利益が大きければ、そして発覚するリスクが小さければ悪事を働くことになるのだろうか? 実際に贈収賄、横領なんてしている人たちは、絶対に見つかるまいと踏んでいたか、見つかってもそれまでの利益(楽しみ)が大きいと考えていたのだろう。
他人に見つからなければ悪事を働いても良いのかといえば、良いはずはない。良いはずはないが悪いことをする人がいるならそれを見つける仕組みを作れというのはISO的な発想だ。具体的には二者牽制、情報公開、権限の分散化などが考えられいろいろなところで適用されている。最近は公益通報制度なんて北朝鮮や東ドイツのような密告制度もできた。しかし不正を予防するために仕組みを作ることは重要だが、そればかりに頼れば仕組みが重くなり仕事が円滑に進まない、働く人がやりがいをもたなくなる、お互いに信頼しなくなるなど弊害もある。
では不正の抑止としてどうあるべきか?となれば倫理感を持つべき、もたせるべきというのは現実的であり、効果的であると思う。
しかし倫理とか道徳というものは人が生まれながらにして備わっているものでないことも言うまでもない。では倫理感とはどうしたら植え付けることができるのか?
学校の道徳教育でといっても教える先生が先生では期待できない。逆効果が期待される。
ISO14001であろうとISO9001であろうと、経営者が出す方針の効力は企業内部に限定される。経営者は企業犯罪をするなという権利(?)はあるだろうが、家に帰ってからドロボーをするなという権利はないように思う。良い悪いではなく企業外で犯罪を禁止することは従業員と会社との契約で定めることはできそうない。
国家公務員法や地方公務員法でも、「職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。」とあるが、勤務時間外にどうあるべしとは語っていない。

ではどうすれば倫理感を受け付けることができるのか?コンプライアンスを徹底できるのか?
現実の企業では、企業内教育とか倫理遵法について従業員と会社が契約(宣誓)させるということをしている。それが有効かというと有効ではないだろう。もちろん企業にとってはそれを行うことにより、従業員が企業犯罪を犯したときの免責となるわけで、有効であることは確かである。
私が愚考するに、法を守るということは自尊心を持たせること、それは子供の時からのしつけとか周りの人たちの感化以外ないように思う。自分を大切にする心を育てることが、他人を大切にし、ルールを守る人となるのだと考える。
自分が信じるところに従い、強い人にも反論でき、弱い人の意見にも従う、そんな勇気ある人を育てないと、真のコンプライアンスはありえない。
「もし外国から国際道義に反して、非道なしうちをしかけてきたときには世界中を敵に回しても、私たちは恐れることはない。国が恥辱を受けたときは、日本国中の人民が一人残らず命を捨てて国家の名誉を守り抜きべきである」学問のすすめ 第三篇 福沢諭吉)
新渡戸稲造の武士道にも同じ意味の言葉があった。
そういう人を育てなければならない。方針に法を守れと書くまでもなく、法を守り義を通すだろう。
ISO規格の方針を周知するためには、まず人を作らねばならないようだ。 


本日のまとめ
使命とは命を使って社会に貢献することと聞いた。
たった一度の人生、悪事を働くより正しく生きて死にたいもの
おっと、もっとかっこよく言った先人を思い出した
身はたとひ、武蔵の野辺に朽ちるとも、留めおかまし大和魂(吉田松陰)


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