寝癖のまま他社さんを訪問したこともある。それどころか見知らぬ会社に監査に行ってから、スーツの上着とズボンがチグハグだったことに気づいたこともある。さすがにあのときは恥ずかしかった。こうなると礼儀作法というレベルではなく、粗忽者というレベルだろう。もっとも、さすがに無精ひげでよそ様を訪問したことはない。
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私の職場には20代から50代までいるが、定年目前の私が最年長である。私はすべての方を「さん付け」で呼んでいる。それが一番無難だし、上下関係を意識しない・させない呼び方だと思うから。 もちろん、私は年下の人から「クンづけ」で呼ばれても気にしない。ただ世の中は広いから、気にする人もいるだろう。だったら金もかからないのだから「さん付け」で呼べばいいじゃないかというだけだ。 |
私は忌憚ない人間なので、そういう場合「あなたの言葉使いは間違ってますよ」としゃあしゃあと言う。私が礼儀知らずなのかしら? 【遠慮ない】〈きたんない〉 率直、憚(はばか)らずに単刀直入に言うこと |
【はん文縟礼】(はんぶんじょくれい) 礼儀や規則・形式などがこまごまして煩わしいこと。 "はん"の文字は機種依存とかEUC-JPに複数の種類があるとかで文字化けしてしまうそうです。 本日はいつもとニュアンスが大きく違うぞと思われた方もいらっしゃるでしょう。 そうなんです。私は本当はまじめで面白みのない人間なのですよ ![]() |
マナーの話についての感想 実は書き込みするのは初めてではないのですが、以前使った名前を忘れてしまいましたので、新しい名前で失礼します。 貴サイトがお書きになっているさまざまな文章に対して、実はかなりの違和感を持っております。 今回は『マナーの話』についての感想と私の考えを欠かせていただきます。 人間はその属する社会の規範によって制限を受けるというお話は概ね同意できるのですが、その後が納得できません。 社会規範による制限がどうにも善悪の観念とまぜこぜになっているように思えます。 社会規範はあくまで決まりごとにすぎません。 それを守らないでトラブルが生じるとしても、当人が気にしないのなら全く問題にならないと私は考えます。 人のことは気にしないというなら、大人として社会で行動するべきではない。田舎どころか山奥で人と付き合わない暮らしをするべきである。 とお書きになっていますが、私にはいくら考えても他人の都合を考えなければいけないという根拠が思いつきません。人のことを気にせず、世の中で堂々と暮らす事の何が悪いというのでしょうか。どうして、人を気にしなければ、人の中では生きてはいけないのでしょうか。 というより、この世界にかくあらなければならないという絶対の基準などないと私は強く思っています。 ただ、これはただちに私が他人を気遣わない事を意味するのではありません。 私は、私の経験と考えをもって、私がそれを必要だと感じるからこそ、他人を気遣った行動をするのです。 ただし、これは正しい行いではなく、私の個人的なエゴにすぎないと、私は考えます。 社会的存在である人間が社会規範を守り、社会を円滑に動かしていく。 これは善も悪もない、ただの一つの考え方にすぎません。 それを押し通していく時、念頭に置くべきことは、その考え方は絶対の正義でも、ある程度の妥当性をもった考え方でもない、ただのエゴだという事です。 我々が社会規範を守り、それを広く世の中で通用させるという事は、それに同意しない考え方の違う人間を、自らのエゴでもって押しつぶし、黙らせる事だと強く自覚する必要があると考えます。 また、最後に引き合いに出されていたイエス・キリストの言葉 「自分がして欲しいと思うことを、他の人にしてあげなさい」 は、むしろ危険な考え方だと私は考えます。 バーナード・ショーの有名な言葉にこういうものがあります。 「あなたが他の人々に自分にこうして欲しいと思うのと同じ事を、他の人々にするな。なぜなら、彼らの趣味はあなたの趣味と同じではないかも知れないのだから」 他人が自分に望む事を、自分の感覚や、一般的社会通念をもとに疑いもなく決めてしまうことは、その対象となる相手の本当の心の声をかなり高い確率でつぶしてしまうものではないでしょうか? また、愛国心についても同じように言えます。 自分の国に誇りを持つような教育を受け、歴史を学んだとしても、それぞれの個人が抱く国に対する感情には当然差異が生まれます。 あるいは、愛国教育を受けてなお、(例えば、自衛官の家族を持ち、その人物が自衛官としての仕事の中で殉職したとして、それを誇りに思うか、それともそういった状況を作った国を恨むかはその人間次第でしょう)国に強い憎悪を抱く事もあり得るのではないでしょうか。 そういった様々な個人の思惑を画一的な言葉や規範で語る事は不可能であると私は考えます。 そして、不可能であるものに目をつぶって押し通した先には山のような矛盾が生まれ、それがさらに鼠算式に新たな矛盾を生むのではないでしょうか。 (ここでも、断っておきますが、私自身は日本を愛しています。ただ、それは普遍的な価値観を持つものではなく、ただの私個人の考えにすぎないのです) 忘れてはいけないのは、人間は一人で生まれ、一人で死ぬしかないという事です。 重ねて言いますが、私は他の人を気遣う事を否定はしません。 ですが、それは言ってしまえば自分勝手な思い込みに過ぎないのです。 それでも、自分の信念や感覚以外に寄る辺を持たない我々は、その暗がりを手探りで進んでいかなければなりません。 そこで、自分の考えが、他者の考えを押しつぶす可能性がある事から、私は眼を逸らしたくないのです。 まとまりの無い文章で申し訳ありませんが、これが私の考えです。 それでは、失礼いたしました。 |
おがくず様 お便りありがとうございます。 マナーの話から愛国心まで多方面に論じられておられますが、ひとつひとつ片づけましょう。 マナーの話はISO審査員講座というコーナーで審査員について語っております。ISO審査員なんてご存じないかもしれませんが、まあそういう職業があると考えてください。 この職業の人は他社を訪問して聞き取り調査をして、ISO規格に合っているかいないか、てっとり早く言えば「良い・悪い」を判定して飯を食べているのです。 いってみればサービス業のさいたるものです。そういう職業の人はコミュニケーション力そのものが売りなのですから、ビジネスマナーを身につけないと総スカンだよと語っているだけで、キリストさまもお釈迦様も単なるたとえです。 コミュニケーション力がなければ、山にこもれとは言いませんが、そういう職には不向きでありましょう。 審査員に語っていることを一般化してはいけません。 愛国心ですが、そりゃ一人一人お考えが異なるのは当然でしょう。バーナード・ショーさんには会ったことがありませんが、自分が言いたいことを語っている人は必ずいるはずで、有名人の名言集をあされば言いたいことを見つけることは簡単です。それどころか、ゲーテはすべてを語ったと言われているそうで、ゲーテだけ調べても間に合いそうです。 まあ、狭い世の中ですから、お互いに肩がぶつかったらすみませんと譲り合いましょう。 |
中国化 佐為さま あらまです おがくず様の一文「それ(社会規範、マナーなど)を守らないでトラブルが生じるとしても、当人が気にしないのなら全く問題にならないと私は考えます。」を読み、日本も中国化しているように思いました。 先日、中国から帰国した同僚から、中国人の気質についての愚痴を聞きましたが、中国人とはまさしくそんな民族のようです。 列を乱すことはあたりまえ、交通マナーなんて無いに等しく、車に轢かれたほうが悪いそうですよ。 商売だって、商業道徳なんてものはなく、「騙されたほうが悪い」そうです。 そんな世の中ですから、戦々恐々としているようで、日本人のように、ディズニーランドで 1時間も 2時間も、平気でおとなしく順番を待っているなんて考えられないようです。 昨年の北京五輪では、国民を挙げてマナーの特訓をしたようですが、それも終わった今、すっかり元の中国に戻ったようです。 |
あらま様 毎度ありがとうございます。
みんなが同じ価値観をもっているならそれもありなのでしょう。
韓国人のケッチョナヨ(気にするな)ということが良く言われます。売り物に傷があってもケッチョナヨ、間違ってもケッチョナヨ、ぶつかってもケッチョナヨ・・・
以前ネットの大先輩からお聞きしたのですが、彼らは自分が迷惑を受けた時もケッチョナヨと受け流すそうです。
そういう価値観なら別に悪いことはないのではという気がします。
問題なのは、人のものはおれのもの、おれのものは俺のもの、自分のわがままは通すけど、人の意見は聞かないというジャイアンタイプの発想の人がいることですね。
マナーの話 おがくず様のご意見を興味深く拝見いたしました。 ただ、話の論点がずれているのは 佐為様論では 前段:社会的規範は時代とともにうつろうのも現実で、それはいたしかたない。人前で化粧をすることは売春婦の印であり、決してしてはいけないことだった。 本論:第二者監査、第三者監査においてはお会いする人はほとんどが初対面、そしてその日限り、長くても数日のお付き合いである。 初対面では使わないような言い回しはやはり使うべきではない。 結論:あなたはサービスを提供する客商売なのです。 審査の不適合を相手が納得しない場合あなたの説得力がないことを自覚すべきです。 ということであって、サービス業としての審査員のあるべき姿を説いているだけです。一般的な普遍論として捉えてはいけません。 おがくず様が、ご自身の行動原理をご自身の主張に沿ってをどのような形にしても自由であると思います。が、「社会規範はあくまで決まりごとにすぎません。 それを守らないでトラブルが生じるとしても、当人が気にしないのなら全く問題にならないと私は考えます。」という主張は「ごみ屋敷の主人」や「迷惑行為の主人公」の発言と似てはいませんか?個人エゴ、主義主張は認めますが、上記意見は言いすぎでしょう。 私事ですが、私も永年サービス業を生業としたため、「相手の都合(事情)を考える」「相手の立場を考える」習慣がついています。 人は皆、自分の思い込み、考えで行動しますが、それは(その影響は)、『節度』の問題であり、「相手に気を使う」事とは別のことでしょう。 |
羆様 毎度ありがとうございます。 ゴミ屋敷で思い出しましたが、以前住んでいた田舎町にもゴミ屋敷があってテレビで報道され、見覚えのある街並みをテレビで見て懐かしく感じたことがありました。 懐かしく感じる程度ならいいですが、近所に住んでいる人は迷惑そのものですね お互いに気を使って暮らさないとトラブルばかりということになります。 といいつつ、最近歳をとったせいで頑固になりつつあります。 娘に嫌われないようにしなければ・・・ |
萬太郎です。お久しぶりに参上仕ります。 さて、おがくず様の意見に一言。 おがくず様の意見に同調できない方は少ないでしょうね。なにしろ、「規範」について勘違いをされているわけですから。そもそも「規範」というのは「ねばならぬ」というのが前提です。そして、規範にも「法規範」「宗教規範」「道徳規範」等々、いろいろ存在するわけで、左為様は今回、それらをひっくるめて「社会規範」といわれていると推察いたします。 そのような主張に対して、おがくず様の言われる「我が道を行く」という主義主張は、ちょっと空振りしてしまっています。たとえば「宗教規範」の範疇なら、同じ宗派の仲間内で「我らの神は絶対」と声高に主張されても誰も文句を言わす、自由に発言できます。他宗派にとっては「寝言」ぐらいにしか聞こえません。 しかし、「法規範」の範疇で、たとえば総理大臣が「日本国は自衛も侵略も、戦争は必要」なんて言おうものなら、現状では全く許されません。かなりのペナルティが科せられます。それが具体的な行動に出た場合、世論の批判どころか憲法違反になるかもしれません。おがくず様のように「他人がどういおうと、どう感じようと、自分は自分」などという身勝手は絶対に許されない状況も発生するわけです。 小さい世界でいえば、「習慣規範」の中であれば「我が道を行く」は許されます。「冬は権現山に入ってはいけない」という村の不文律を破れば「村八分」というペナルティーが実行されます。それを苦にするもしないも、おがくず様の論法である「村八分、結構。一人で生きていくわい!!」は通用します。それがあなたの生き方なのですから。しかし、殺人や盗人は「法規範」では絶対に許されるものではありません。村八分どころか、おまわりさんに連行されて一人の自由を謳歌するなんて不可能になってしまいます。 左為様の言われるとおり、おがくず様は「多方面に論じられておられ」ている点に問題があります。規範の一言に対して全てを語ろうとせず、左為様の視点と同じ土俵上で反論されないと、同調者を集めることは少しばかり難があるのではないかと推察します。 以上 |
ウルトラマンタロウ様 ご無沙汰でございます。 まあ、あまりきつく言ってしまうと、それもまた規範を超えてしまうことになります。 いい加減に生きていくというのがいいのかもしれません。 ここはひとつケッチョナヨ精神で・・ 韓国語が好まないなら、タイ語でマイペンライというのもあります。 さあ、ご一緒に!マイペンライ |
マナーの話について 初めまして、ほんの一見ですがコメントさせて下さい。皆様のご意見を拝見していたら、おがくず様があまりにも不憫でしたので。 そもそも、「もちろん審査員以外の人にとっても有用かと存じます」と前置きし、また電車内のマナー等を引き合いに出すことで一般化されたのは佐為様に他ならない筈なのに、反論に対しては「一般化してはいけません」と言うのでは少しばかり都合が良く聞こえてしまいます。少なくともおがくず様にとっては今、最も関心がある事柄なのでしょう。 また、萬太郎様ご指摘のとおり「法規範」と「道徳規範」、つまりルールとマナーは別(の役割がある)ものです。そこを混同し、社会規範としているところにおがくず様は違和感を覚えたのではないでしょうか。ルールとは「せねばならぬ」ものですが、マナーは個人の美意識が出所であり、さらに抽象的に言えば「他に求める」ものでなく「他に与える」ものだと思います。佐為様の本文中「私が礼儀知らず?」もここが引っかかったのではないですか? 勿論おがくず様の発言を全肯定する訳ではありません。どんな正しい主張でも「言い方ひとつでまるで違う結果になる」が今回の主旨なのに、敵意ともとれる表現になってしまったように見えます。また、関心が強いばかりに多少の暴走(?)というか言い過ぎてしまう部分も見受けられます。しかし、これに関しては佐為様も同じ趣(?)があるのでは? 例えば返答で「山にこもれとはいいませんが」と語彙を緩めておられるように、本文中の「田舎どころか〜」の件は言い過ぎだと思います。そういった少数者に対する排他的な言いぶりは、人により過剰に気にする方も割といます。(おがくず様ではないですよ!)それを思えば無料なのだから(笑)過激な言い方は避けるべきだと思いました。 本文への感想でいえば、佐為様の上下関係に対する考え方に感銘を受けました。私も「年上を敬え!!」などと声を荒げるような年の取り方は避けたいものです。他を見下してしまう問題は、これも一般化させて頂けば、昨今、公取委の調査が入るような事例や、はたまた一部の偏った愛国論者がするように隣国を見下す等、人は簡単に優越感に突き動かされます。「優越感は人類の一大命題」と言ったら大袈裟か・・少なくとも私の人生のテーマです。もしかしたら私が正しい事をしたいのは優越が欲しいのかも?と。 話は逸れましたが、佐為様の内省的なお考えと、おがくず様の「独善に自戒的であれ」との主張は、根元的には遠くないのでは?と思いました。 突然の長文かつ僭越な発言をご容赦下さい。 |
漁夫様 お便りありがとうございます。 まずこのウェブサイトをめぐる状況でございますが、つい最近、某氏(それがし)が日の丸について書きこまれて、管理人である私が頼りにならないせいか、常連の皆様がいろいろとご意見を書き込まれたという戦時下(?)臨戦態勢(?)であったので、その勢いでみなさまがコメントを書かれたと思います。 まあおがくずさんも出会いがしらという状況であったとご推察ください。 さて、おがくず氏のご意見ですが、はっきりいって私は反対でも賛成でもありません。いろいろあって良いと考えます。 権力をもってしても、人の気持ちを操作することはできません。「誇りをもて!」といっても誇りを持つはずがないのです。日の丸に敬意を示せといっても敬意を持たない人がいるのはあたりまえです。 但し、世の中で生きていくためには日の丸をあげるときは、起立して顔を向けるとかすべきであって、日の丸反対!というようなことは許されないということです。 心の中では「自分がして欲しいと思うことを、他の人にしてあげる」ことに反対でも、「自分がして欲しいと思うことを、他の人にしてあげる」べきなのです。そういうのは社会常識であって、危険な考えではないと考えます。 ところで漁夫様、文章を良く読んで欲しいのですが、私は初めの段では「人のことは気にしないというなら・・山にこもれ」と書き、おがくず氏への返事では「コミュニケーション力がなければ、山にこもれとは言いません」と書いたのです。これは意味が全然違います。人に迷惑をかける方は世間にしゃしゃりでてほしくないのは変わりません。他方、自分の思っていることを相手に伝えるのが不得手だけで山にこもれとは言いませんよということです。当初の意見を覆したり、譲歩したのではありませんよ |
佐為さま あらまです 小生は、おがくず様の文章を読み間違えたかもしれません。 つまり、「マナーを軽視している」のではなくて、「マナーに拘らない」という解釈もできると思いました。 たとえば、最近、こちらから挨拶しても返ってくることが少なくなりました。車で狭い道を譲っても、挨拶で返す車が少ないですね。 「せっかくみちを譲ったのに、無礼な奴だ」と腹を立てます。 これは、良いことをしたはずなのに、自分が腹を立てる・・・典型的なケースだと思います。 こうしたことは、普段の社会生活でも多くなったと思います。 せっかくしてあげたのに・・・・。 実は、自分がしてあげたことは、相手に見返りを求めていたことに過ぎなかったということなんでしょうか・・・ おがくず様は、それを指摘されていたのかも ? 「客」の立場になると、基本的なマナーもしなくなる。それが当たり前の世の中になったのに、マナーを求めるなんて論外 ? ちと、ベクトルが違いますか ? |
あらま様 毎度ありがとうございます。 正直言いまして、おがくず様とあらま様と私・・そのスタンスは同じだろうと思います。 違いがあれば、言い回し、重み付けの違い程度のことと思います。 ただコブラ様の一件があったので、みなさん殺気だって(?)コメントを付けたので一方的になってしまったと感じます。 すべては優柔不断な管理人である私の責任でしょう。 コブラさんの時も、あまり断定的なことを言うまいとしてだんだんと大騒ぎにしてしまったのは私の対応が悪かったと反省しています。 最終的にアク禁にするなら、はじめからバシッと言えば良かったと思います。 還暦にしてまだ立たず・・ |
萬太郎です。 「おがくず様」の意見に対し、未だにこだわっていました。ナゼなのか考えてみました。で、今回で最後にします。 結論です。腹立ち、憤り、もどかしさ。それらはもしかしたら、自分の若い頃を思い出すからなのかもしれません。そして、過去の自分に似た論調に対し、否定したくなったのかもしれません。 たとえばおがくず様が「他人の都合を考えなければいけないという根拠が思いつきません。人のことを気にせず、世の中で堂々と暮らす事の何が悪いというのでしょうか。どうして、人を気にしなければ、人の中では生きてはいけないのでしょうか」のあたりなどは、萬太郎が学生時代に思っていた考えに近く、笑ってしまうくらい似ています。だからこそ、そんなおがくず様の主張がもどかしく、一言物言いしたくなるのかもしれません。おがくず様ではなく、自分に対して否定したくなるのかもしれません。 学生時代は「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」なんて言葉も知りませんでした。おがくず様の意見に、独りよがりな考え方を正当化していた自分が重なり合って、つい反論したくなってしまうのかもしれませんね。まだまだ青二才の萬太郎です。 さて、「到知」でも読んで、穢れた心を洗うとしましょう。 またお便りします。 |
萬太郎様 毎度ありがとうございます。 私の考える小銭と萬太郎様の考える小銭は金額が違うでしょう。「死ぬほど痛いよ」と言っても人によって痛さは違うでしょう。 人によって表現も異なり、感覚も違います。 「人のことを気にせず、世の中で堂々と暮らす事」といっても人によって、気にしない程度、堂々の程度は違うと思います。 まあ、私たちなり生きていきましょう。 |