環境側面・著しいまわり道
自己宣言 その2 
09.04.02

最近、自己宣言をしようという会社があり、その相談に乗っている。
実は相手はひとつではなく複数の会社であり、それぞれの文化も違い目的も思いも異なり、規格の読み方やどう具現化したいかなどのお話を聞くと面白いというか、ISO対応もバリエーションがあって勉強になる。
しかし自己宣言という位置づけで、いろいろなご質問・ご相談を受け対応を考えると現在のISO14001の規格構成が最適なのか?あるいは規格文言が適正なのか?などなど疑問はたくさんある。認証という方向からだけみていると思いもつかないこと、気にもしなかったこともあるし、規格をそういう見方でしか読めなかったということに改めて気づき反省する。
私の過去15年の行動の基準はやはり認証機関に合せて審査で審査員ともめないようにするというのが大前提であった。それは良い悪いというよりそういうものだと思い込んでいたというのは事実である。会社の幹部にしても、審査員と議論したりすることは好まない。まして「審査とは規格を教える場」などと語る審査機関の幹部もいる現実では、規格の理想を実現しようとか、会社にとって最善策はどうあるべきかなどと考えても仕方のないことである。
自己宣言となると、そういった枷(かせ)はなく、規格適合であれば審査機関の性格というか思い込みというかそういったものに合わせることなく、会社にとって最善を求めることは自由である。
そんなことは自己宣言に限らず、認証を受けるときでも当たり前のことであるはずだが、当たり前でないことに多くの人はうなずくだろう。もっとも駆け出し事務局とかISOマニアにはそういう発想が浮かばないかもしれない。
そんな質問をされたり思いめぐらしたりして気がついたことが多々ある。本日はその第一回である。「その2」とあるのは既に自己宣言というタイトルがあるから。

まず本日は、ISO14001の最難関である環境側面について書く。
環境側面の特定方法、著しい環境側面の決定方法を自己宣言という観点から見ると、まず大きな違いは審査員に説明する必要がないことだ。もちろん自己宣言であれば、すべての項番についても審査員について説明する必要はないのだが、特にこの項番は相手に分かるように説明して理解してもらわなければならないという宿命にある。
なぜならISO規格で定義している環境側面を理解している審査員というのは稀有な存在らしい。多くの認証機関はそれぞれ独自の環境側面という概念を持っているようだ。審査員に説明する必要がないということは、純粋に規格を満たしていると自分自身が納得できる方法であれば良いということだ。
きのう今日設立された会社あるいはまったく白紙の状態から環境マネジメントを考えなおそうというならいざ知らず、すべての会社は歴史とはまでは言わずとも創立して数年経過しているだろう。会社が存在している限りEMSは付随する性質であるから当然存在しているはずだ。「環境側面」などという言葉を知らなくても、それにあたる対象物あるいは概念については過去より管理していたことは間違いない。
とすると「貴社の環境側面は何か?」と問われたとき、改めて「環境側面を抽出して調べましょう」という発想になるはずがなく、いままでどんなことをしていたかを振り返ることになるだろう。
そしてその結果、「過去からこれをしっかりと管理してきました。ですからこれが著しい環境側面に該当すると思われる」と応えるのではないだろうか。
そして「いかにしてそれが管理が必要と判断したのか?」という問いに対しては「設備であろうと化学物質であろうと製品であろうと新規事業であろうと新規導入時にアセスメントを行って法規制や管理項目を良く調べて必要なこと社内の手順に反映している。重大でないと判断したものは管理手順を定めていない」ではないのか?
もっとも見直しをした結果、管理項目から漏れていることが見つかるケースもあるだろう。その場合は、それまで法違反が起きなかったことを神に感謝するしかない。
環境側面を調べるという表現が大間違いであって、新たな事業や製品や製造工程の変化があれば、当然のこととして導入に当たり問題はないか? 新たな管理が必要な事項は何かと調べなければならないと規格要求事項で表現すべきではないだろうか? もちろんそれは環境だけでなく、法規制全般、付近住民を含めた利害関係者への影響、資格や許認可ということも調べて対応しなければならない。
その結果、対応が必要なことは管理しなければならないというごく当たり前のことだ。わざわざ著しい環境側面などという言葉を作るまでもなかったように思う。
著しい回り道というべきだろうか?
つまり通常の企業において想定すると、ISO14001規格が4.3.1項で決めていることは「設備、工程、材料、事業、などを新しく導入あるいは進出するとき、アセスメントしなければならない」という意味に過ぎない。
簡単ではないか?

具体的な事例で考えてみよう。
新しい塗料を使おうとした場合、当然それを使っても良いか悪いかを調査して評価しなければならない。まずMSDSを入手し、危険性、法規制などを調べる。保管や使用に当たっての規制、管理方法、資格者の要否、廃棄する場合はどのように廃棄すればよいのか、作業場の注意、掲示板、安全対策などなど・・
導入時に審査した結果、必要な措置が明確になれば、その対策、資格者の育成、保管庫の整備、許可申請、安全対策などを行うことになる。当然その扱いを社内の文書に反映する。これは規格でいえば、4.3.1、4.3.2、4.4.2、4.4.5、4.4.6・・など多岐にわたるものとなる。
ビジネスで新規事業に進出する場合を考えても同じだ。
もちろん新設備導入、新工程採用、新材料導入、新事業展開などの前に行うアセスメントは環境に限定されない。
ひょっとするとだが、たまたま規格をそう読めるというだけでなく、規格の本来の意図はそうでなかったのだろうか? そんな風に考えると、ISO規格は単なる要求事項ではなく経営の考え方を示すものだという説もあながち間違いでないように思える。
まあ私は理想の世界とか高尚なことを語ればいいという立場ではなく、いついつまでに認証しなければならないという現実的で泥臭い仕事をしてきた。そんなせっぱつまった立場にいる人は、環境側面という魔法の言葉を聞いた瞬間に、過去より営々と築きあげてきた自社のEMSを忘れてしまうのかもしれない。
いや、環境側面という言葉に魔法の力があるのではなく、審査で環境側面をどのように特定していますか?どのようにして著しい側面を決定していますか?という質問に説明するために必要もない調査をして文書を作り説明しなければならないという現実が、そういう無駄と意味のない手順をもたらしたのではないだろうか?
審査を受けない、自己宣言するとした場合、私たちは無邪気な子供のようにそんな方法は裸だと叫ぶことができ、そのようなあまりにも現実離れした手法や文書は不要となるのではないだろうか?
自己宣言という方法こそが真にISO規格を実現できるのかもしれない。
もちろん私は自己宣言を費用削減や手間ひまを省くためとか、いい加減で良いなどとまったく考えていない。自己宣言の方が説明責任はすべて会社にあり、真剣にならざるを得ない。
もっとも認証を受けても、事故や違反が起きれば、認証機関は素早く逃げてしまって一切責任を負わない。

第三者認証を受けようとすると、審査員とのやりとりで無用無駄の文書を作り、あげくに規格からのかい離を生じるという現実から考えると、規格をしっかり読んで、自分なりの方法で必要十分規格要求を満たそうとする方が、実質のあるそして質の良い組織に合ったEMSにリファインされるのではないだろうか? そんなことを考えた。
ただISO認証という外圧を利用しようという会社にとっては自己宣言は役に立たないことは間違いない。
これから自己宣言の体制構築を進めていくにつれてまた新しい局面が見え、私にとって新しい発見、体験があるだろうことを楽しく思っている。


外資社員様からお便りを頂きました(09.04.03)
自己認証は世の中の流れ?
ISOの自己認証、興味深く拝読致しました。
例によってISOは素人ですが、IT機器関連の認証試験は、仕事でかかわっています。
この分野では、従来はライセンサーが第3者による認証を求めていましたが、自己認証の方向が増えてきています。
例としてはWindowsロゴ認証(Microsfot)や、HDMI(テレビなどAV機器の企画)などです。
これらの試験では、第三者による認証も可能ですが、大会社で費用負担も問題なく、社内にも評価部門があれば、そこによる自己認証が可能です。
なぜ自己認証になったかと言えば、第三者検証は市場での問題がないことを保障できないからです。
これらのロゴ認証では、基本的な機能のみ確認します。 つまり最大公約数的な試験しかしません。
一方で、市場で試験対象となる製品(DVT)は、様々な機器と組み合わされ、認証試験以外の部分でも問題が発生します。ですから、自己認証があろうが、品質に真面目な会社は第三者試験を利用したり、自社で更に試験をします。

さて、ISOに話を戻すと、自己認証が進んでも、第三者検証を受けていけない訳はありません。
違いは、そこで不適格と言われようが、少なくとも自社では合格しているのですから、審査官はその違いを説明する必要があるはずです。もし、そのような動きがあれば、審査官は真の力を試されるのだと思います。また、社内だろうが、自己認証の責任部門が独立性を持つならば、それは社内規定や業務を知らない第三者より、会社の利益につながる認証が出来るのだと思います。

外資社員様 毎度ありがとうございます。
興味深く拝読 していただくほどの文ではありません・・恥ずかしいです。
外資社員様のコメントを読んで新たなことに気が付きました。それはCEマークなんてほとんど自己認証ですよね?
わざわざ人さまに頼んで試験をしているメーカーはあまりないように思います。
それに対して、法的に何の意味もないマネジメントシステムの適合確認を大枚を払ってみてもらう・・あげくにおかしな規格解釈をする審査員にほんろうされて・・・
まったくおかしいとしか言いようありません。
しかし外資社員様の後半の論には違和感があります。
自己認証が進んでも、第三者検証を受けていけない訳はありません
そうでしょうか?
自己宣言が一般的になれば、誰も無駄な出費をしないと思いますけど??


外資社員様からお便りを頂きました(09.04.05)
自己認証と、第三者認証
自己認証が進んでも、第三者検証を受けていけない訳はありません
そうでしょうか?
自己宣言が一般的になれば、誰も無駄な出費をしないと思いますけど??


私がかかわっている民生機器の規格認証では、自己認証が可能にもかかわらず、第三者認証を受ける会社がおります。 それはOEMやODMの場合には、自分のデータでは手前味噌かもしれないから、お客から第三者によるデータを出せといわれるからです。

ISO認証の場合は、別かもしれませんが、日本の会社はまじめですから、自社内部でも審査をやった上で第三者試験でも問題ないことを確認する会社があります。こうした会社の試験をするのは、怖いです。なぜなら結果で相違が出れば、思い切り突っ込まれるからです。ですから、軽々しくNGは出しません、こちらも再確認をしてから判定をします。
こういうお客さんがいれば、審査部門も淘汰されてゆくのだと思います。

外資社員様 毎度ありがとうございます。
おっしゃるとおりですね。
お客様が要求すればこれはやらざるをえません。
それに自社でできない、あるいは自信がない、しっかりと確認してほしいということもたしかにあります。
ところで昔輸出する機器の試験ができない会社はJMIという所に頼んでました。JMIがJQAに名前を変えて認証機関になりました。それ以上言うとアブナイかな?


まきぞう様からお便りを頂きました(09.04.06)
おばQ様
自己宣言に関し、興味深く読ませていただきました。共感されている方がいるのはうれしく思います。
確かに環境側面の特定と著しいものの決定というのは、組織にとって一番のめんどくささだと思います。
審査の場では審査員からは、著しいかどうかは組織が決めればいい、などと先に言っておきながら、○○が入ってませんね、などと言われます。あれが混乱の元だという認識は審査員にはないのですかね、、、
自己宣言においては、すでにおばQ様が書かれているとおり、すべて自分たちが納得できるやり方で進めていくことになるのでしょう。順守評価しかり、運用管理しかり。そういった意味では、自己宣言になると、自律と自立を組織に促す効果はもしかしたらあるかもしれません。
事務局時代の経験で、
運用管理では、著しい=手順書が必要か?という議論になりました。また、順守評価は何をもって証明するのか、という議論もありました。いずれも、エビデンスのためにどうするのか?という視点での議論でした。確かにエビデンスがあれば審査のときに説明はしやすいかもしれませんが、それが経営に何の意味があるのか分かりません。仲間内で議論しましたが、手順書がいるという主張には辟易しました。
そもそも、省エネのための手順書なんて存在できるわけがないのです。設備投資や機器の異常診断、毎日の巡視とデータの俯瞰、これらのことが手順書化できたとしても、それで省エネが達成できるものではありません。歩留りにしても同様です。手順書一つでなんでも改善可能ならISOなどいりません。
また、産業廃棄物の契約書の各項目をチェックしたとして、そのエビデンスは最終的に出来上がった契約書で十分なのではないでしょうか。署名されたレ点のチェックリストなんか紙の無駄です。
ISOの要求とは、すべて業務の中で達成されることであり、そのエビデンスは社会では誰も望んでいない無意味なものだと思います。全部とは言いませんが。
自己宣言はビジネスとしては流行らないのでしょうね。怪しげなコンサルさんも、さすがに自己宣言しようという意識を持った組織をうまく籠絡できるとは思えません。

まきぞう様 毎度ありがとうございます。
私も日々勉強中です。まきぞう様のおっしゃるように、省エネのための手順書なんて存在できるわけがないのです というのは至言のように思います。
ただこれこそ有効性とは何ぞやというときに、システムが有効に機能しているのか? パフォーマンスが向上しているのか? の違いであって、ものすごい違いであるのは確かです。
ともかく、私たちはISO規格を正しいという前提で活動しているわけですが、審査員の解釈が正しいかどうかは検証しなければなりません。
私たちはISO規格という聖書を信じそれを実現しようとするだけで、審査員という司祭の見解などどうでもよいというか、そもそも権威などないのでしょう。
とすると、第三者認証制度はカソリックであって、自己宣言はプロテスタントであるということでしょうか。
もちろんカソリックISOが悪いわけではなく、信じるだけで救われようとする人にとってはすばらしい教義です。更にゴシック風の教会(認定協会)があり、免罪符として認証証というものももらえるのです。
他方、プロテスタントISOたる自己宣言にはおごそかな儀式もなく、神を信じて己を信じて生きるほかありません。
まあ、他人に頼るより、己の力で生きていくということのほうが価値があると私は思います。
なんか全然関係ありませんね 

外資社員様からお便りを頂きました(09.04.06)
自己認証 その2
ロケットけんちゃん様がお書きになった自己審査の問題点は、私は次のように思います。
1)悪意はなくとも危ない部分は避けている
2)長期間すると審査が形骸化する
3)審査に合わない場合には、その部分のみ修正する などと思います。

なぜそう思うかと言えば、私は”製品設計の第三者認証”の仕事をしているので、その経験からです。
1)は、設計者は一番製品のことをしっていますので、危ない部分は自然に避けます、または消費者が行う非常識な使い方はしません。 ですから、思いがけない使い方での問題は見過ごすことが多いのです。
2)は、第三者認証機関にもいえることなので自戒していますが、同じ手順が繰り返されると、人は単純化やルーティン化をします。ですから見落とす可能性が多くなります。これを防ぐには、審査者を変える、審査機関を変える、自己認証と第三者認証を併用するなどの対策があります。
3)は、試験者や、認証機関の能力に関わります。 ある問題を見つけて、他にも発生する危険がないか、原因分析がそこまでできるかで変ります。 真に力がある人は、見つかった問題だけでなく、他に及ぶ危険もみつけます。そうしたことは認証や試験を行う人や機関が問われる力だと思います。
如何でしょうか。

外資社員様 毎度ありがとうございます。
正直申しまして、外資社員様がおっしゃることの具体的イメージがわいてきません。
話は変わりますが、ISO9001の審査員認証機関のJRCAの季刊誌の09/03月号に第三者認証制度の問題点がいろいろと論じらています。
JABのISO大会と違い、かなり真摯に形骸化とか審査の問題を論じています。真剣に現状を憂いている人がいるのだと安心しました。
それに比べてJABはかみしもを付けて建前論しか語っていないようです。そういうところには現状打破も改善も期待できないなあと思いました。


外資社員様からお便りを頂きました(09.04.08)
自己認証の課題
済みません、自分の仕事の中で考えたので、判りにくい説明でした。
乏しいISO審査の経験から、言い替えてみます。

1)自己認証の実施者、判定者の選出が困難
利害関係者では駄目ですよね。 かと言って、社内の規定や、関連規格について判っている必要もあるし、深い経験や広い見方も出来るのが望ましいのだと思います。そういう人材の適任者を得るのは簡単ではないと思います。
利害関係者ではないという点では、第三者機関は問題ないのです。

2)長期間すると審査が形骸化する
上記のような適任者がいても、同じ人が何回も審査すれば、関係者は合格のためのコツを掴んでしまうと思います。
受験する側も、本来の目的は社内システムや規定が目的に対して適切なのかを確認することだったのに、いつの間にか”合格”するが目的に変容するのではないでしょうか。 手段を目的化しないことは、重要と思います。
それに対しては、対策例としては、審査をする人を複数化したり、どんなに素晴らしい人でもある期間で交代するのが必要と思います。
第三者の場合は、審査者が固定される可能性は少ないように思います。
もちろん自己認証でも、それを固定しなければ問題ないと思います。

(3)審査に合わない場合には、その部分のみ修正しない)
問題が見つかった場合に、その部分だけ手直しするのではなく、更に深く掘り下げて他にも同様な問題がないかなど、分析と確認が重要と思います。
ISO審査の現場で、どのようにされているかは不明なのですが、、試験者の能力が問われる部分です。
第三者認証なら出来るかは不明なので、これは自己認証固有の問題でないと気づきました。

外資社員様 毎度ありがとうございます。
おっしゃるご心配は分かります。
自己宣言そのものは内部点検結果、適合であれば外部に表明することです。
しかし通常自己宣言と言った場合、真に内部の者だけが点検して外部に宣言するのは少ないようです。多くの場合は親会社、顧客、自治体の場合は住民代表などが監査員を務めるようです。そういう意味では多少なりとも客観性は担保されます。
長期間になると形骸化する・・確かにその恐れはあります。もっとも審査機関の場合でも組織側が審査員を固定することを望むことも多く、その場合は同じようになります。まあ、システムをドンドン改善していくという共通認識がないと、いかなる方法でも形骸化という罠に陥る可能性はありますね。
是正処置の深掘りは、組織の成熟度によると思います。ISOのない時代からしっかりした是正処置をしている会社もあり、ISOの時代でも不具合の除去しかしない会社もあり・・
全部が全部、自己宣言に限らず、大なり小なり第三者認証でも同じかもしれません。

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