第三者認証というビジネスモデル 09.06.25

漢字検定というのがあるらしい。以前から電車のドアとか雑誌の公告で見たことがあったが、私はあまり関心がなかった。今年(2009年)、その漢字検定の親分が私腹を肥やして捕まって有名になった。私は漢字の書き取りは子供のときからチョー苦手で、そのような検定を受けたいとも思わず、受けても良い点数が取れるはずもない。
しかし漢字検定というものはビジネスモデルとしては、なかなかいい線を行っているのではないかと思う。こういった資格でなく検定の類はそれこそ星の数ほどあるが、成功したものは少ない。
一応ここでは言葉の意味として、何事かの業務に従事できる要件を資格、何事の能力を保証するものを検定ということにしよう。その名称が免許でも、師範でも、資格でも、試験でも、とりあえずここでは検定と資格のふたつに分けて論じる。
世界遺産検定をとっても学校の先生はできないし、またそんな検定に合格しなくてもピラミッドの研究はできる。そろばんの級をもっていなくてもそろばんを使えるし、囲碁免状がなくても囲碁を楽しむことができる。英語検定がなくても英語を話しても罰則はない。そういったものが検定だ。
教員免許をとれば力量のあるなしに係わらず、先生になれる。簡単な試験ではあるが特別管理産業廃棄物管理責任者の資格がないとその担当者になれない。運転はうまくても免許がなければ公道を走れず、技量がなくても免許があれば公道を走れる。そういうものを資格という。

資格というのは法律あるいは民間でもよいが、何らかの制度があって、そこで決めた業務を遂行できるための要件である。民間資格なんてあるの?といわれそうだが、ある。良く見かけるのはISO審査員である。もっともこれは業務独占資格とは言いがたい。必ずしも審査員の資格(実際は登録)をしていなくても審査員ができる。実際にはそんなことを知らない審査員も多い。その他、業界内でも特定の機械を操作する作業者は一定要件を満たした人と決めているのもあり、そういうのは民間資格である。

いずれにしても検定という制度がなりたつには、その検定のメリットがなければ検定を受けてくれる人がいないわけで、いかにその検定のメリットがあるかをアッピールできるかが、その検定が社会に受け入れられて存続できるかのポイントである。
珠算検定なんては大昔からある。計算機、電卓がない時代は商売でも設計でもそろばんは必需品であり、そろばんを使う能力は要求されていた。その力量を客観的に評価してくれるこの検定は、社会的に信頼され評価され存続してきた。もちろん現在では必要性が低下してきたことは否めない。
反面、パソコンのスキル(珠算の場合は能力でパソコンの場合はスキルか  )を評価する検定が出現してきた。
同じカテゴリーであっても、英語検定とTOEICは同じマーケットでシエアというか、社会の信頼性を競っている。検定の試験方法が実務における力量との相関が強ければ社会的に評価されることは間違いない。現時点外来種(でもないか)であるTOEICが在来種より優勢のようだ。
され、漢字検定はTOEICほど真剣さがあるわけではない。なにせ、いまどき仕事において手書きで文章を書く人は少ないだろう。現在のパソコンであれば、かな漢字変換は当たり前であるし、変換候補と共に意味や使用例をポップアップで示してくれる。そのへんをしっかりとチェックしていれば誤変換も少なく、恥ずかしい文章を書くおそれは少ない。
じゃあ、なぜ漢字検定は世の中に受け入れられたのだろうか?まあ教育界、学校などが推薦したこともあるだろうが、受験料が高くなく、たわいがなく、ちょっと努力をすればその成果が見えること、いまどきのちょっとした物知りをひけらかすという風潮にマッチしたからだと思う。
そして制度的にクラスを設けて、一人の人が何度でも受験してレベルアップしていくという制度設計をしたところがうまい。まあ、そろばんも英語もそういう制度設計になっているので、画期的ということもないかもしれない。TOEICはクラスというものがないが、結果は点数で現れるので、よりいっそう向上心をかきたてる。
そういうクラス分けをしていない検定もある。eco検定(正式名称は環境社会検定試験)だ。これは環境知識を試験して、一定点数以上であれば合格となるが、それで終わりだ。つまり一回受けると終わりである。当初は上級を設けるという話もあったがなかなかそうならないようだ。
つい最近「環境プランナー」という制度ができたという話を聞いた。
eco検定とは直接上下関係はないが、まあそういったものの延長線上にあるのだろう。こちらははじめから3階級の制度設計をしており、当分の間は継続できる仕組みである。もちろん検定料だけでなくテキスト代、講習会でガッポリ稼ぐための仕組みもあるのだろう。
検定が社会的に存続していくためには社会的評価だけでは成り立たない。受験者が相応の受験料を払ってくれないと、幹部が私腹を肥やす以前に、事業を維持していくお金が入ってこない。ねずみ講を思い浮かべるとわかりやすいが、対象市場が限定されていれば事業の先行きは見えてしまう。しかし市場が一定であっても、商品(検定)が消耗したり、あるいはグレードアップしてもらうことが期待できれば、ビジネスは永続できる。囲碁や将棋の場合、初段を取れば二段、二段を取れば三段となるのは人間の心情として当然のことで、何度もお金を払ってくれる。しかも試験に落ちれば落ちるほど、段位の価値は上がり売上げも上がる。だが現在は日本人の囲碁離れが進み、囲碁人口減少により市場そのものがシュリンクし、日本棋院も関西棋院も収入は減少しつつある。いまどき囲碁欄でタイトル棋戦を見るために新聞を買う人はいないと思う。

さて本題である。
今までの長ったらしい文章は本題ではないのか?なんて言っちゃいけない。私のアイデアは一発芸というのが多く、出せば一瞬で終わりなので、前振りというか序文というか水増ししないと、本代もでないのである。
今まで取り上げた検定は個人対象である。しかしもちろん企業対象、法人対象の検定もある。ディミング賞なんてものはもちろん検定ではなくプライズだろう。経団連なんとかというもの、経済産業大臣賞なんてのもプライズだろう。検定とプライズはどう違うのか?なんてまじめに問い詰めてはいけない。もっとも違いがないわけでもない。
ISO9001とかISO14001というのがある。俗にISOとかアイエスオーと呼ばれている。あなたの会社でもそんな怪しげな運動をしているでしょう、それですよ、それ。
しかしISO認証というのはプライズとはいえない。なにせ現時点日本国内にQMSで4万とかEMSで2万もあったらプライズになりえない。
セレブは大勢いないからセレブなのである。
私はISOは検定の部類だろうと思う。だってここで検定とは「何事の能力を保証するもの」と決めたのだから。つまりISO認証を受けると、まあ人並みの品質経営をしているとか、妥協できる程度の環境管理をしているだろうと他人から認めてもらえるというものであるという意味だ。
現実に認証を受けていない会社がはるかに多く、現実に事業をしているのだから資格でないのは間違いない。
そう考えると、第三者認証というビジネスモデルは、永続するためには検定が期限付き、クラス分けなど、受験者が常に受験するという意欲付け、強制力が働かなければならないことが明白だ。そしてその強制力は合格者が社会的に評価されなければ働かないことも明白だ。
まず、認証というのは3年という期限付きであり毎年定期検査を受けなければならないと一応はうまく作っている。クラス分けはない。ISO9001認証には初段も二段も師範もない。基準はひとつしかない。これは制度設計としていささか稚拙である。
話は変わるが、不動産の許可番号には免許を何回更新したかという数字が付く。お客は永年不動産屋をしていれば昨日今日始まったところより信頼できるだろうと推定し業者を選ぶ。
ISO認証ではそういうシンボルもない。
認証してから、いかほど向上したかも分からない。もっとも向上するという保証もないが 
じゃあみんな同じでもいい。認証の社会的評価は保証されているのか?
ここは微妙である。
世間ではISO認証制度は審査を受ける人からお金をもらうので信頼性がない。だからこのシステムの欠陥であると語る人がいる。そうではないようだ。いやそうではない。
私は単純にビジネスモデルの制度設計が下手だったからだと思う。
しかし待てよ、そもそもISO認証というのはISO9001:1987を元に作られたものである。商取引において、品質保証を求めるのは世の習い。世界共通の品質保証規格を定め、厳格で客観性のある審査を行いその品質保証規格を満たしていると裏書することは決して意味のないことではない。それはビジネスモデルとして十分に存在できる要件を満たしていたのではないだろうか?
ISO9001が2000年版となって、品質マネジメントシステムと称した瞬間に、そのシステムにパラダイムシフトが起きて、その結果社会はその意味するところに価値を見出さなくなったということではないのだろうか?
品質マネジメントシステムというものであれば、一体何を評価し、誰に何を保証するのだろうか?
漢字検定は漢字の読み書きができることを保証する。読み書きするのに漢字検定はいらないが、漢字検定○級といえば、あの人はこのくらいのレベルだろうと第三者が認知できるのは事実であり、それが存在意義である。
ISO9001認証といったとき、第三者はその事実からいかなる情報を得ることができるのだろうか?
ISO9001は当事者である組織にそのシステムが一定レベルにあることを証明することとしよう。その結果、誰がどのような利益を得るのだろうか? 社会はある企業がISO認証したという情報を得て、どのようなメリットがあるのか?
認証機関と認定機関が利益を得るなんて突っ込みは禁止
単にシステムが一定基準を満たしているといわれてその組織が満足するだけなのだろうか? 自治体に住んでいる住民が、その自治体がISO14001認証してどのようなメリットがあるのか? 何もない。よい行政であるか否かは、審査員より住民が身をもって理解している。ISO認証していてもサービスが悪ければ、そこから導き出される結論は、認証に対する不信感である。

長い話を終わろう。
ISO規格に基づく第三者認証ビジネスは減少中である。はっきりいってもう市場が一巡してしまったのだろう。ねずみ講にたとえれば、もう子供ができない時点に突入したのだ。
そして社会的な評価という圧力がなければ現在の会員(認証企業)も継続して会員であり続けることもないだろう。人間は保守的だからなかなか変化しないが、登録に期限があるということもあり、期限が来た企業から会員を辞めていくということは可能性が高い。そんな風に思う。

大揺れに揺れた漢字検定であるが、09年6月には新体制で試験を行った。受験者は3割減というが、あれほどの大騒ぎにもかかわらずこれだけ受験者がいるということは、その検定の厳格さと結果に対する信頼性は揺らがなかったということだろう。ご同慶の至りである。いや、漢字検定側の人だけでなく、受験者、過去の合格者も誇りを持ってよいことだと思う。
似たようなことは他の認証制度においても過去に起きたことがある。エコアクション21でも審査で癒着が言われたことがある。
そういった問題が制度全体の命取りになるか、リカバリーできるのかというのは、制度自体が自浄作用を持っていることと再発防止ができたと社会が評価したかによる。
しかし制度設計に起因する問題は、検定(認証)が社会に評価されるように制度設計を改めることが絶対である。はたしてISO認証制度はどうなのだろうか?

本日の余計なアドバイス
eco検定にチャレンジされる方、
 そんなものより手軽な公的資格である公害防止管理者なんていかがですか?
更なる蛇足
 エコプランナーを受検される方、
そんなものより難関の公的資格である環境計量士なんていかがですか?



外資社員様からお便りを頂きました(09.06.26)
認証のビジネスモデルによせて
佐為さま いつも有難うございます。ビジネスモデルとなれば、私には語り易い話題です。
漢検と、ISO認証を比較すれば一目瞭然、漢検ビジネスの成功の理由はプロモーションにあります。 テレビタレントにクイズ番組で出題し、ゲームソフトまで作ってどこでも遊べるようにした。 漢検会長が言った通り「自分が心血を注いで作った」は真実で、彼の工夫は世間への認知と、付加価値(周囲に凄いと思わせる)を創造した部分と思います。経営者としては、ビジネスのリターンを再投資し価値を高め、ある時期は損は承知でリスクを乗り越えて投資が必要で、その点では、「経営者としての漢検会長」は立派なのです。
一方で漢検の問題は、目的と実態が一致していない点です。漢検の目標は「正しい漢字を身につけ、日本語の文章力を上げること」とありますが、前述の高島俊男先生によれば、一級未満の試験では回答に「旧字体」を認めない点と、単語の知識に偏り問題文も含めて用法が不適切な点を挙げています。
「列車が"方に"出発するところだった」の問題では方は「マサニ」の読みが正解らしいのですが、これは漢文読み下しに使うべきもので、現代文の中で使うこと自体が正しい日本語ではないと指摘しております。同様な奇問が多いようで、難問ほど「正しい日本語」という目的には外れているようです。
ビジネスとしてのISO認証の問題は、初期の儲けを付加価値向上の再投資に回さなかった点にあると思っています。(後知恵ですが:笑)
ただし、真に価値がある認証を目指すなら付加価値の再投資へ不要で、時間をかけて顧客の問題点を見つけ、相手が求める価値を提供するべきと思います。

外資社員様 毎度ありがとうございます。
なるほど、漢字検定も努力なくあったわけではないのですね!
ISO認証は1992年EU統合時に、とにかく認証しなくては輸出できない!という悲鳴のもとに日本中が走り出したというのは事実です。
初めに価値というか必要性があったわけです。だからそれにあぐらをかいてしまったのでしょうね?
やがて化けの皮が剥がれて・・・以降放送禁止 ピー



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